ホリエッティの「三大陸周遊記」 <死語の世界>その3
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10)現代ギリシア語:前回お話したように、大学の授業科目として設置されている「ギリシア語」とは古典ギリシア語のことであるから、現代ギリシア語は日本で、まず学ぶ機会がなかった。そこで、ベルリン自由大学の講義要綱(ただで支給されず、本屋で千円くらい出して買う。だから、ケチなドイツ人はまず買うことがない。よく見せてくれと頼まれた)に見つけると、歓び勇んで履修してみた。
ネイティヴの生身ギリシア女性が会話を手ほどきしてくれた。いわば縄文時代のギリシア語しか知らない私にとって新鮮だった。古代と現代の発音変換則さえ呑み込めば、他の履修者は敵ではなかった。初級で数十人いた学生も中級講読のビザンツ学の男性教授の演習となると、3人に減っていた。
生身ギリシアの友人もできた。クラブで踊り、イヤンナとマリーアと肩を組み、街角を闊歩し、「俺は暴君(テュランノス)だ!」のつもりで、古典ギリシア語を口走ると、「サトーシ! その単語、現代では「サディスト」の意味よ!」と笑われた。単語も時代により、意味を大きく変えるのだ。
ベルリンから研究拠点をミュンヘンに移すと、ギリシア人テノール歌手の一部屋に住むことになった。夏には、サラミナ島(ペルシアとのサラミス海戦のあったところ)の彼の別荘に2週間お邪魔した。もちろん、アテネのパルテノン神殿、ソクラテスが議論で油を売ったアゴラ、「汝自らを知れ」のアポロン神殿擁するデルフォイ、古代劇場現役のエピダウロス(アリストファネスの『雲』を観賞)、まばゆい黄金マスク出土のミケーネ、クレタ島クノッソス神殿の青と赤が鮮明なフレスコ画、風車で風光明媚なミコノス島(ヌーディスト・ビーチもある!)、スフィンクス立ち並ぶデロス島、アトランティス大陸の片鱗ともいわれ、新婚旅行のメッカ、サンドリニ島など訪れた。
片言のギリシア語を話すだけで随分褒められた。ただ、「何でギリシア哲学をやるのに、ここギリシアに来ずにドイツなんかにいるのか」の度重なる質問には閉口した。「仏教学を学ぶのにインドに行かず、フランス・ドイツ・オーストリアに行くがごとし」と答えておいた。
11)サンスクリット:帰国すると、当時東大の専任の定年が60歳だったので、まだ油の乗り切った原実先生(国際サンスクリット学会副会長、交際仏教学大学院大学学長を歴任、目下、学士院で正月は天皇陛下に!15分講義をするお役目)が、慶應に非常勤でポロっとやって来た。学生と並んで初級に交じった。
6人の履修者のうち、Gonda(ホンダ)文法、辻直四郎文法の練習問題をまともに解いてくるのが私だけということの当然の帰結として、次年度中級の授業は、マンツーマンで東大名誉教授の家庭教師に習うかたちとなった。『ヴェーダ』とか『マハーバーラタ』を読んでもらうかたわらの雑談が貴重だった。論文の抜刷もたくさんいただいた。「四苦八苦」の「四苦」の瞠目すべき解釈も教わった。暑いインドでは、女性のからだは冷たいと文学で称讃されるのだと聴いた。至福だった。
12)チベット語:西洋古典学を研究するのに、ギリシア語、ラテン語、英独仏が必須というように、学問の最低要件というのは群れを成している。
仏教学の前提にはサンスクリット、漢文、パーリ語、チベット語というセットがあった。そこで、マールブルク大で博士号をとった畏友・齋藤直樹を呼んで来て、2年間チベット語を習った。西洋古典でラテン語訳でしか残っていないものからギリシア語原典を復元する作業とパラレルで、漢訳やチベット語訳から、サンスクリット原典を復元する作業だった。これらの言語からは、格関係をしっかり明示するサンスクリットの精密さには届かないことが認識できた。
13) ペルシア語:アラビア文字を借用しているから、4文字追加するだけで、他の新しい文字を学ぶ労は省けた。すでにアラビア語を習っていた岩見先生の授業に参加するために、春休みに1ヶ月くらいで文法書を独習し、いきなり講読に連なった。結構読めた。
文字はアラビア語とほぼ同じだが、文法はインドヨーロッパ語族に属すので、私にはお馴染みだった。辞書もアルファベット順に各文字を引いていけばよいので、セム語族のアラビア語ほど苦労はしかなった。日本語が中国語から文字を借りつつ、文法は異なる語族に属する関係と同様である。
37歳でシリアのアレッポにて処刑された神秘哲学者スフラワルディーは、アラビア語でもペルシア語でも著述しているので、両方読めるようになる必要があった。イスラーム哲学を学ぶ場合の必須の語群は、アラビア語かつペルシア語なのである。
14) ロシア語:当時青山学院で学部長をしていたロシア政治通の袴田茂樹教授のお宅に10回ほど通った。プーチンと大統領選を競ったイリーナ・ハカマダが異母兄弟だから強い。ロシアとの関係がややこしくなると、ご意見番として政府に呼ばれる。夜でも昼食会でもなく朝食会への車が寄せられるという。お嬢さんを東大の宗教学科で教えたことが縁である。
とはいえ、芦屋大学教授の奥様の方に教えを乞うた。エリツィン元大統領の通訳まで務めたことがあるロシア語の熟達者だったからである。昼でもガウンとサスペンダー姿で、ブランデーグラスを廻しながら階上から降りてくる茂樹教授の迫力はすさまじかった。一時期の俳優・江守徹を思い浮かべていただければよい。
「一とおりロシア語を勉強したら、最後に馳走しよう」とおっしゃった言葉どおり、最終回は学会で北海道から買ってきた毛蟹を自ら捌いて振舞ってくれた。一緒にロシア語を学んだ私の弟子の西村君(現・兵庫県立大准教授)ともども、よく飲みよく食べたので、たいそう歓んでいただいた。
国際政治が専門にも拘らず、茂樹教授のゼミは哲学書を徹底して読ませるものだと伺った。このとき以来、私の青山学院のイメージは、英語でも駅伝でもなく、哲学である。近年の青学入試の小論文に哲学的問題が多いのも、妙に得心が行くのだ。