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洋々LABO > 洋々コラム > 小論文のための推薦図書―その17― 土橋茂樹『三位一体――父・子・聖霊をめぐるキリスト教の謎――』 中公新書2866、2025年

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 上智大学・大学院・助手を経た土橋茂樹氏は古代中世哲学を専攻し、多くの大学で教鞭を執ってきたが、いまは中央大学文学部教授の職を全うし、同大学名誉教授として執筆活動に専念している。57歳から66歳にかけてようやく三批判書を書いたカントにも似て、『善く生きることの地平――プラトン・アリストテレス哲学論集―― 』(知泉書館、2016年)、『教父と哲学――ギリシア教父哲学論集―― 』(知泉書館、2019年)、『振り向きざまのリアル――哲学・倫理学エッセイ集――』(知泉書館、2022年)、『教父哲学で読み解くキリスト教――キリスト教の生い立ちをめぐる3つの問い――』(教文館、2023年)と、土橋さんも円熟の60歳代になって矢継ぎ早に著作を世に問うている。
 初めてお会いしたのは、古代哲学研究という志を同じくする大学院生に門戸を開いた、都立大学の加藤信朗先生の大学院演習の席であった。99歳の現在もギリシア哲学の大御所として、いまなお尊敬の念を集める加藤先生の往時の演習は張り詰めた空気が漂い、それはそれは恐ろしい/畏ろしいものだった。逆に昨今、そういうカリスマ性を備えた先生が大学から消えたのは残念でもある。土橋さんはアリストテレス哲学研究からスタートしたはずだが、プラトン対話篇にも通暁し、上智大学のカトリック風土から中世哲学から目を背けることもできなかった。じっさい、師事したのは上智大学中世思想研究所を率いて、平凡社の中世思想原典集成20巻の偉業を成し遂げたリーゼンフーバー先生だった。中央大学に定職を得て後、ポーリン・アレン教授が主催するオーストラリア・カトリック大学初期キリスト教研究所滞在を機に、ギリシア哲学の論理を武器に信仰を弁証する教父哲学にも関心を向けるようになった。こうした古代から中世にかけての包括的視点を獲得することなしに、三位一体論解明の難題に着手することはなかったであろう。
 ユダヤ教→キリスト教→イスラームと継承された一神教の系譜のなかで、ヤハウェやアッラーという一柱の神だけでなく、神/イエス・キリスト/聖霊の三者いずれもが神だと説くキリスト教は稀有な宗教というか、不可解なしろものである。高校「世界史」或いは「倫理」の教科書で試験のためにのみ暗記する「三位一体」という術語は覚えるのはたやすいが、一般の理解を超えているし、ほぼ誰も三神の内実を追求しないのが実情ではないか。因みに、ふつう三つの「神」とは言わず、三つの「位格」(もともと「仮面」の意の「ペルソナ」の和訳)という用語で言及される。
 Cur deus homo?(なぜ神が人となったのか)と定式化され、問われ続けている事態がまず逆説の深刻さを暗示している。つまり三位一体以前に、神と人が同じものであること、つまり二位一体が不可解である。そもそも一神教のはずなのに、元の神と、人となった神との二つに分裂しないのか。さらに聖霊に至っては、いったい何なのか信徒でも答えに窮するのは察するに余りある。
そこで、歴史を遡り文献学的に旧約聖書に当たってみるならば、「創世記」劈頭の「初めに神、天と地を造り給いき」(1:1)の「神」(エロヒーム)の「イーム」は総じて男性名詞の複数形を明示する語尾である。従って、本来は「神」でなく「神々」であったと推測される。一神教にみえて、多神教の様相が浮かび上がってくる。また、同じ「創世記」の「神言い給いけるは、「我ら、我らの像に従い、我らのかたちに似せて、人を造らん」」(1:26)の主語「我ら」は複数形である。ここは教父たちによって、ペルソナ間の対話と解釈される。つまり、神とイエスが相談する天上会議の描写というわけである。
 ストア派の二つのロゴス説を援用するならば、まだ語られる前のロゴス(言葉)が神、発話されたロゴスが子キリストであり、神と子は同一ロゴスの二つの位相になる。しかし、「同一ロゴス」だと抗弁しても、例えば、後者である発話後の創造された光は、前者である神の心中?に響いた言葉「光あれ」によって産み出されたものであって、従属的地位を占めるに過ぎないと解されるなら、神人同一を擁護するための手立てが、「両者は一体にあらず」という反論の武器へと転じてしまいかねない。
 それは、新プラトン派の開祖プロティノスの道具立てを借りて来て、神の本質存在と働きを不即不離のものとし、火という本質存在が周囲に熱を放散するごとく、前者=神は必然的に後者=働き(を遂行するイエス)を発出するという説明も、多数化される熱から逆算して、神も多数化されるので、立ち行かない。
 そして、聖霊は東方教会では、父たる神から発出するとされるが、「から発出」は<聖霊>が「子として神から生まれる」ことを意味し、結局、<父>から子<イエス>と子<聖霊>と二人の子が誕生したことになる。或いは西方教会に従って、聖霊が<父>と<子>から発するならば、<聖霊>は<父>の孫ともなって、対等ではなく従属関係に堕してしまう。
 <父><子><霊>を線状的序列のもとに収める眺めが同一性を崩壊させるならば、三者を循環的相互的にみるパラダイムへのシフトが探られるのは当然である。マトリョーシカのような入れ子人形だと、小さな人形は大きな人形の中に入るしかないが、神的位格は非物体的で、互いに包含し合う「相互内在」(ぺリコーレーシス)の関係にあるとされる。神的本質としてはあくまでも一にして不可分であるが、三位格は等しい存在論的身分にある。アウグスティヌスは、聖霊を父からの子への愛として捉え、その愛は子から父へと愛し返されると説く。それ故、聖霊が父から発出し、子からも発出するとは、愛である聖霊を介して父と子が結合されることを意味する。そして、三位格内での聖霊の永遠の働きは、類比的に信者共同体内でも反復される。すなわち、人間に注ぎ込まれた聖霊としての神の愛は、多くの魂を一つに結びつける。さらには、人間が神の像をかたどって創造されたのであれば、一個人の心の中にも三一構造が認められるはずである。アウグスティヌスは自らの内面に沈潜し、精神のなかに神の三位一体の似像を探し求める旅に出る。400年から425年にかけての長い年月の思索の結晶『三位一体論』は、『告白』に劣らず読まれてよい古典である。
 土橋氏の新書は一般向けの水準をはるかに超え、7回にわたる公会議の錯綜した議論と時の政局に翻弄されるさまも丁寧に描きつつ、読者をキリスト教の深化した理解へといざなって止まない。

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