ホリエッティの「三大陸周遊記」<死語の世界>その5
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20)中高ドイツ語: ふつう大学で習うのは、新高ドイツ語(Neuhochdeutsch)というが、13~14世紀に活躍した神秘神学者マイスター・エックハルトを読むには、別言語にチャレンジするがごとき心がけが必要となる。そういう古語学習は大学学部では通常行われない。
NHK語学番組でもおなじみの平尾浩三先生の門を叩き、独文科の大学院の授業に潜入した。平尾先生は東大駒場から慶應に移ってきた。ふつうとは逆の流れの理由は、おそらく岩崎英二郎というドイツ語学の大家(『ドイツ語不変化詞辞典』、小学館『独和大辞典』で著名)が慶應にはいたから、岩崎に引き抜かれたのであろう。貴重な人材を得たものである。さっそく私はそれを活用したわけだ。
中高ドイツ語(Mittelhochdeutsch)の発音はいくつか違うが、代表的なものは母音のeiの結合が[アイ]ではなく、[エイ]と発音されることだ。エックハルトの思想に、魂のこの世からの「離脱」という重要なモチーフがあるが、新高ドイツ語のAbgeschienheit「アップゲシーデンハイト」は、中高ドイツ語ではabegescheidenheitとなって、「アベゲシェイデンヘイト」と読まれる。そう読むだけで、「魂における神の子の誕生」とか「創造神を超えた神性への突破」を説教した異端エックハルトの息遣いが間近に感じられるではないか。私は授業に参加する代わり、1コマ90分のうち15分間毎回、ラテン語を独文大学院生(畏れ多いことに平尾先生をも含む)に教えさせられた。
関西弁の平尾先生のよいところは、いつもちょっとエッチなドイツ語表現を教えてくれることである。Maennerhose「メンナーホーゼ」の直訳は「男性のズボン」だが、「避妊具」の意味でも使われるという。文学部って、学部卒業で終わってしまうと、もったいないところがある。奥義は大学院で伝授されるのだ。
藤井昇先生(研究棟の前にローマ時代の服トーガを着て現れ、長年の語り草になっているひと)のラテン語講読もやばかった。人前では口に出せないオヴィディウス『恋の手ほどき』(Ars amatoria)など軟文学を授業では和訳させられるのだ。訳しにくいところは、仏文教授で芥川賞作家の荻野アンナ女史がよく当てられていた。
因みに、ここで名前をあげた面々ももちろん試験の採点に関わることもある。そうそう、かつて藤井先生は小論文採点の折、退屈なさってしまい、答案に「浴室」でなく、誤字で「欲室」と書かれてあったのには、わが意を得たり、と狂喜して、採点官仲間に見せて廻ってたっけ。
21)エジプト語:総じて、内部進学者の大学での成績は芳しくない。英語も彼/彼女らのために特殊学級が設けられるほどお荷物なのである。ところが、エジプト語ほど風景が変わってしまうと、英語がまったくできない慶應女子高出身の生徒でも頭角を現わす例を私は見聞した。英語コンプレックスの方、是非エジプト語をやってみるとよい。
イスラエル住まいが長かった笈川博一先生からは、まずヘブル語を習ったが、本当のご専門はエジプト語である。中公新書で『古代エジプト――失われた世界の解読――』など出しており、エルサレムのヘブライ大学ではエジプト語で教鞭を執っていたからだ。
3000年以上の歴史を有するエジプト語は大まかに分けても、古エジプト語・中エジプト語・新エジプト語に分かれ、解読が進んでいる後二者を新→中エジプト語の順序で習ったが、文法書も辞書も異なるものを用意しなければならなかった。変化した期間の長さに鑑みると、日本で現代国語辞典と古語辞典が別であるのと同様である。
ヒエログリフ(神聖文字)には表音文字も30位あるので、今日でもエジプト旅行すると、金の延べ板に自分の日本人名をヒエログリフに移して売りつけられる。動植物、人間、人工品、自然物などを写した表意文字はサインリストに纏められ1000位ある。原則、子音表記なので当時の母音は不明なのである。例えば、“f”の表音文字である<角あり蛇>は、便宜的に「エ」の音を入れて「エフ」と読む便法を踏襲している。<角あり蛇>(エジプトの蛇は角があるそうだ!)は英語のof「~の」の意だから、どおりでたくさん見かけるわけである。
22)コプト語: 笈川博一先生に、続けて紀元後4世紀以後のエジプト語形態であるコプト語の教授を図々しく頼んでみた。キリスト教外典研究にも、グノーシス思想および、それと連動するプラトニズム研究にも大きな武器となるからだ。文字は7文字オリジナルを付加するが、基本的にギリシア文字を借用している。體育会系笈川先生は、なんとたった4回の授業でコプト語全文法を終えてくださり、その後すぐ「トマス福音書」原典テキストを読み出した。
イエスが言った、「木を割りなさい。私はそこにいる。石を持ち上げなさい。そうすれば、あなたがたは私をそこに見出すであろう」など、新約聖書の正典に採用された4福音には見られない奇抜なイエスの言葉が伝承されている。
23) ポルトガル語:目下、取り組んでいるのがポルトガル語だが、それは数十年来のブラジルの親友ウィリアムと会話するためである。人をよりよく理解するため、それが私の語学習得の大きな動機なのかもしれない。
<今後の抱負>
まだ余命があるなら、こんな語学に手を出すのでは。
24) デンマーク語:私のベルリン留学時代、最もインパクトを受けた哲学者は、ミヒェエル・トイニッセンだ。本邦では、現象学の他者論の著者としてもっぱら著名だが、学位論文は意外にキルケゴール論だった。デンマーク語原典で実存主義の草分けキルケゴールを読んでみたい。
25) ルーマニア語:私の専門分野の新プラトン主義に属し、アカデメイア最後の学頭ダマスキオスに関し、ルーマニア語でよい研究が発表されているようである。フランス人でできる人が散見されるので、習得の敷居はさほど高くないと踏んでいる。だれか、一緒に独習しませんか。
26) グルジア語:27) アルメニア語:5世紀最有力だった体系的形而上学者プロクロスの『神学綱要』(ギリシア語原典)への註釈がグルジア語で書かれ、それがアルメニア語に訳され、再びグルジア語に翻訳された経緯がある。
トルコ東部、同国最大の湖であるヴァン湖を訪れた折、湖内に浮かぶアクダマル島のアルメニア教会外壁には、巨人ゴリアテに挑むダヴィデなど、旧約聖書をモチーフにした浮彫が見事に保存されていた。そのユーモラスな美しさ、アルメニア文字の魅力が脳裡に焼きついている。そのあたりも、新しい語学に触手を伸ばす動機になるのかもしれない。デカルトではないが、「世界という大きな書物」(grand livre du monde)は観るに値する!!!
(死語の世界 完)