元慶應文学部教授が選ぶ小論文推薦図書[ 6 ]――小田部胤久『美学』
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元慶應文学部教授として長年慶應文学部の一般入試・自主応募推薦入試の出題・採点に携わってきた洋々エキスパート講師の堀江聡が、慶應文学部をはじめとする人文科学系統の学部を志す皆さんにおすすめの図書を毎回1冊ご紹介します。今回は、小田部胤久『美学』(東京大学出版会、2020年)
知人のなかでも小田部胤久氏は絵に描いたような秀才ぶりだ。教育大(現在の筑波大)付属高校から東大文学部に進み、大学院博士課程時代にハンブルク大学へ留学する。ドイツ政府給費留学同期の私は、スイスはバーゼル市立美術館のハンス・ホルバインの絵の前でたまたま彼に再会し、驚いたことがある。ドイツに戻る電車を待ちながら、缶ビールを買おうしたが、二人ともカントやハイデガーは読めても、「缶」のような日常単語が出てこないことに苦笑した。ドイツ政府がサービス提供してくれた語学研修を彼はフライブルク、私はゲッティンゲンで終えると、ハンブルク大学、ベルリン自由大学へとそれぞれの研究拠点に移って行った。聞けば、彼は老婦人の許に下宿し、毎晩一時間も話し相手をさせられ、会話力がアップしたという。一方私は、ゲーテ研究で博士号を持つ大学教授未亡人宅の屋根裏に下宿することになり、これまた研究計画書の添削は、洋々のサポートさながら懇切丁寧に朱を入れていただく幸運に恵まれ、感謝の念を禁じ得なかった。
ハンブルクとベルリンは電車で2、3時間も離れているのに、まだカラヤンが現役でタクトを振っていたベルリンフィル、ドイツ・オペラハウスにはよく彼の姿を目にした。「全盛期の僕は安永さん(日本人初のベルリンフィルのコンサート・マスター)より、バイオリンが上手かった」という物凄い発言も聞いてしまった。同期の思想系のドイツ国費留学生は5人いたが、小田部氏は1年後に神戸大学助教授の職が決まり、「残念だー!(本場の西洋音楽がこれ以上聴けず、専門のドイツ近世美学研究の本場を去らねばならないから)」と本心を吐露しつつ、いち早く帰国してしまった。私は3年間、他に5年間ドイツに残った者もいたが、長くいればよいというものでもない。他国の同期留学生の間でも、彼の大学専任職の早期決定に驚きと羨望の声が挙がっていたのを、いまも昨日のことのように想起する。助手(いまの助教)や専任講師を飛ばしていきなり29歳で助教授(いまの准教授)だったから、尚更である。その後、神戸大学から出身校の東大美学藝術学専攻の教授に迎えられ現在に至る。その間、日独の文化学術交流への貢献者に与えられる「シーボルト賞」を受賞、日本シェリング協会会長、美学会会長を歴任し、『象徴の美学』、『芸術の逆説―近代美学の成立―』、『芸術の条件――近代美学の境界』、『西洋美学史』といった正統派の著作を次々に物している。そして、今回注目されるのが、『美学』というシンプル極まりない題の新刊書である。シンプルさは自信の表われでもあろう。中心はカントの三批判書の一つ『判断力批判』(1790年)の註解の体裁を採っているのだが、内実は同書の成立に至る2200年前のプラトン、アリストテレスの西洋古代から中世を経た美学前史を振り返りつつ、同書以降現代に至る影響史を網羅するという意味で、西洋美学全体を論述の射程に据えた力作なのである。
そもそも「美学」とは、高校時代にはなかなか耳にしない学問であろう。しかし、「美とは何か」という問いは、ごく年若いときから人類共通の関心事のはずである。「湖面に映る逆さ富士は美しい」「フェラーリの新車は美しい」「アルマーニの今期のコレクションは美しい」「みちょぱのスタイルは美しい」などなど、日常のわれわれの会話は「美」への言及に溢れている。いちど立ち止まって、「美とは何か」を自らに問うてみるのも悪くない。しかし、「これこれは美しい」と具体例を挙げることが、ここで求められているわけではない。「馬は美しい」「竪琴は美しい」「黄金は美しい」、こっそり告白の様相で「若い女性は美しい」と答えて、ソクラテスに徹底的に罵倒されたソフィストのヒッピアスと同じ轍を踏んではならない。「美」を主語に立てて、「美」とは何かと探究するのが美学という学問の奥深さなのである。
無数の論点を含む同書から一例を紹介するならば、「共通感覚論」が興味を惹く。「共通感覚」とは、五感を統合する感覚の存在を前提に置くアリストテレスの着想に淵源をもつ。そして次第に、五感に共通な根源的感覚という意味を超えて、人々の間に「共通の」感覚という意味をも担うようになってきた。美の判断を遂行するカントの構想力には、個と普遍が交差する、この「共通感覚」の伝統が洗練されたかたちで流入しているという。
書名・人名索引、引用文献表、読書案内、用語解説を除いても、本文440頁に達するこの大作に目を通すには多少の勇気が必要だ。しかし、すべて理解するには及ばない。要所要所に珠玉の洞察が散りばめられているのを目の当たりにし、目から鱗の落ちる体験をするに相違ない。「崇高なもの」に対する議論しかり、デュシャンによる過去の藝術との対決の論点しかりである。大学生・院生にとって美学の模範的教科書にもなりうる同書に、東大・京大など難関校を受ける受験生も挑戦してみて欲しい。先日、洋々から東大文学部推薦入試に通った生徒には、その種の気概が備わっていた。