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洋々LABO > 書類・試験対策 > 小論文 > 元慶應文学部教授が選ぶ小論文推薦図書[ 7 ]――大川玲子『クルアーン――神の言葉を誰が聞くのか――』

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 大川玲子さんとは、彼女が東大文学部の大学院生だったとき、ユダヤ学の権威、市川裕教授のへブル語の授業に参加した折、知り合った。宗教学のなかでもアラビア語でイスラームを研究しているというので、「具体的に専門は何ですか」とさらに特定化を促すと、「『クルアーン』です」というので、直球ど真ん中で勝負するその潔さに清々しさを覚えたことを想起する。以後、エジプト留学、ロンドン留学を経て、着々と研究を進捗させ、『聖典「クルアーン』の思想――イスラームの世界観――』講談社、2004年、『イスラーム化する世界――グローバリゼーション時代の宗教――』平凡社、2013年など数点の啓蒙書を出版し、明治学院大学教授として活躍している。

 日の丸神風特攻隊のお株を奪ったような自爆テロに耳目集まるイスラームであるが、現代の社会情勢、政治情勢だけに終始する議論には深みがない。また、頭や全身をスカーフで覆うムスリム女性の生活習慣に違和感を抱いたり、日の出から日没までの断食期間ラマダーン(まさに現在進行中の4月14日から5月13日まで)に好奇の目を向けたりすることに終始する態度に、平均的日本人のイスラーム理解が現れているのではないか。何事でも、後世の解釈史あるいは、現代の人々によって体現された思想よりも、ルーツ・源泉を押さえておく方が強い。キリスト教で言えば、後に輩出する有力なキリスト教思想家たちも、聖書に精通する者には一目も二目も置かざるをえなかった。「そんなことは聖書に書いてありませんよ」と言われてしまえば、自己の主張を撤回するか、開き直るほか途はないからだ。

 西洋では若者が教会に通わなくなって久しいし、日本では私の知人が般若心経を朝から屋上で唱えれば、近隣から「縁起悪いから、止めてくれ」と苦情が入るのに対し、ムスリムの宗教への傾倒は強いという印象を受けるのは、おそらく私だけではないだろう。その熱量の多さの理由はどこにあるのだろうか。本書は一つの答えを与えてくれる。

 「クルアーン」とはもともと「誦まれたもの」という意味であり、610年にムハンマドがメッカ郊外のヒラー山の洞窟で天使ジブリール(=ガブリエル)を通じ、神アッラーの言葉を誦まされたことに端を発する。

「誦め、「創造される御方、汝の主の御名において。彼は一凝血から、人間を創られた」と。
誦め、「汝の主は極めて心ひろく、筆によって[書くことを]教えられ、人間に未知なることを教えらえた御方である」と」
(96章1-5節 大川訳)

 以後23年間に亘ってメッカとメディナで下された啓示の集成が『コーラン』というかたちで伝承されている。アッラーは一人称で語るゆえ、神の言葉がそのまま『コーラン』として血肉化されたことになる。この点、新約聖書はマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネという4人の異なる福音書記者の観点からするイエスの言行録にパウロ書簡等が併さったものであるから、間接性が強まるのである。『コーラン』への冒瀆イコール、ただちに神への冒瀆になる。

「このように、ムスリムにとってクルアーンという啓示は、アッラーという時空を超越した聖なる存在が、その言葉を通して、限定された時空である西暦6~7世紀のアラビア半島にいるムハンマドを媒介して、その存在を示したという現象である。ここでは「超越」と「限定」という本来ならば不可能である二つの領域の邂逅が生じている。それを信じることでムスリムになるのであり、その言葉はムハンマド自身のものだと考えれば、ムスリムでないということになる。」(25頁)

 ところで、「啓示」という現象を訝る向きは、恐山のイタコとか沖縄の「カムカカリヤー」(神懸かり)という現代日本にも根づいた現象を思い起こしてはどうだろうか。シャーマニズムはシベリアで見出された事例を説明するための概念だったが、じつは古今東西枚挙に遑がない宗教現象なのである。JKもJDも恐山に行って、この世を超える世界からのメッセージを受けてみたいと思うのではないか。

 自分を超え、全人類を超える存在を認めることができるかが最初のハードル、その存在が我々になんらかのメッセージを送ることがあると容認することが次のハードル。この二つのハードルを超えるのは難しいという立場に与する者は、表立っては態度表明しないにしても、意外に少ないのではないか。だとすれば、ムスリムの立場を斟酌することは可能であろう。
ただ、イスラームはアッラーがアラビア語で啓示したことを重要視する。新約聖書はイエスの話したアラム語を信者に強制するどころか、ギリシア語で記されているし、旧約聖書もアラム語は「ダニエル書」などごく一部で、大半はヘブル語で書かれている。仏典も釈迦の話したマガダ語で読むべきとされることはない。ところが、『クルアーン』は引用される文言も、アラビア語であってこそ効力を発揮するのであって、原則「翻訳」は認められない。従って、翻訳は一解釈に過ぎないと貶められるのである。全世界に散らばるムスリムの子供たちは、幼い頃から『コーラン』のアラビア語に親しむことで繋がっている。「アーメン」や「南無阿弥陀仏」だけでは紐帯は弱いのではないか。

 テロリズム擁護のために「ジハード」(聖戦)という言葉がしばしば用いられるが、『クルアーン』のなかで「ジハード」は、35ほどの使用例のうち、明白に戦闘的なものを指すのは4つのみで、「奮闘努力」という意味の方が多数を占める。中世の大哲学者ガザ―リーは、自身の内面と向き合い、信仰をさらに強くしていく、自分との闘い「大ジハード」を、交戦としての「小ジハード」よりも重視した。そして、現在の多くのまともなムスリムは、この認識を受け継いでいるという(142頁)。

 以上、ごく一部しか紹介することができなかったが、イスラームに対する誤解の解消は、聖典を自ら手にとって読んでみることでしか始まらない。いきなり『コーラン』本文をよむことに抵抗があるならば、大川玲子氏の明快な導きにまず従ってはどうだろうか。

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