小論文のための推薦図書―その13― 中畑正志『アリストテレスの哲学』 岩波新書1966、2023年3月
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3月17日発刊、今年出たばかりの新書である。著者は2022年度で京都大学文学部西洋古代哲学史専修の教授を退官した。3月24日の最終講義では、自己の哲学研究の修業時代(京大学部・大学院)→遍歴時代(東京都立大学助手・九州大学助教授)→新修業時代(京都大学教授)を回顧し、『アリストレスの哲学』を参列者に配布したという。『魂の変容 心的基礎概念の歴史的構成』岩波書店、2011年は和辻哲郎文化賞を受賞、『はじめてのプラトン ― 批判と変革の哲学』講談社現代新書、2021年の著書のほか、アリストテレスの『魂について』『カテゴリー論』などの訳書もある、王道を行く正統派の古代哲学研究者である。そもそも、原典研究の礎を築いた文化勲章の田中美知太郎、紫綬褒章の藤澤令夫の師弟はプラトン研究の開拓者、その後継者の内山勝利はソクラテス以前の哲学の翻訳者兼監修者として令名を馳せ、中畑正志へと継承された京都大学の講座こそが、日本の西洋古代哲学研究を牽引してきたという歴史がある。私個人的には二度ほど京都大学の集中講義に招聘していただいた思い出もあるし、フランス国立学術院の碩学リュック・ブリッソンを関西にお連れした折、同氏の講演会と観光案内を快く引き受けていただいた恩もある。というと、中畑さんはかなり堅物であるかの印象を与えてしまうが、呑み会は朝5時の4次会まで付き合ってくれるし、著書を繙けば察しうるように、ユーモアと自信に裏打ちされた皮肉にも事欠かない人物である。その硬軟交えた人柄こそが、岩波書店から刊行中の創業100周年の記念行事である新アリストテレス全集の監修者に、東大系の故神崎繁と並んで抜擢された理由の一つであろう。過去の岩波書店刊では、プラトン全集は田中美知太郎門下の京大系が、アリストテレス全集は、かつての哲学青年の愛読書『哲学以前』の著者にして、都知事選にも立候補した出隆門下の東大系が独占するという縄張りが定められていたが、その分裂割拠時代が終結する兆しは、中畑さんが京都大学出身なのに、東大系の都立大学の助手に迎えられた時点に遡及するかもしれない。
並び称されるプラトンの方は、倫理/世界史の教科書のイデア論の解説からお馴染みであり、「プラトニック・ラブ」など日常会話でも登場するので取りつきやすいが、アリストテレスの方は地味で意外に知られていない。プラトンの対話篇には生き生きとしたソクラテスが印象深く登場し、彫琢された文体もいまでいえばノーベル文学賞級の優れものであるのに対し、アリストテレスは刊行を意図したものでない講義原稿が伝承されたという偶然が手伝って、砂を噛むようなその文体には、古典学徒のジョンソン元英首相も手こずったかもしれない。ところが、個別/普遍、可能/現実、理論/実践、主語/述語、実体/属性といった対概念、また「カテゴリー」、「本質」という術語はアリストテレスが人類の精神史に定着させたものだと言っても過言ではない。現代論理学の開拓者にして、新しい形而上学体系を構築したホワイトヘッド(1861-1947年)には、「西洋哲学の歴史はすべて、プラトン哲学の脚注に過ぎない」という有名な文言があるが、「プラトン哲学」を「アリストテレス哲学」に置き換えた方が真実に近いとの見立てを中畑は提示する。アリストテレスの著作に対する夥しい註釈と解釈の積み重ねはギリシア語で、シリア語で、アラビア語で、ラテン語で古代後期から(西洋・イスラーム)中世を経てルネサンスに至る。1500年から1650年間を切り取ってみても、註解が6653点を数えるという。スコラ哲学者の頂点トマス・アクィナスが端的に「哲学者」(philosophus)と口にすれば、それは「アリストテレス」を指していたし、英国の哲学全般に関する代表的組織は、なにもアリストテレス研究に特化したわけではないにも拘らず、Aristotelian Societyと命名されている。
多々ある論点のなかで、私がとりわけ興味を抱いたのが、可能態/現実態による世界把握である。従来のアリストテレス解釈によれば、世界の基本的あり方が実体と属性という図柄で描き出されると、色や味、善や価値は属性の側に含められ、属性の担い手に過ぎない実体は、無色無味無臭のたんなる物の地位に貶められかねない。しかし、こういった理解は正しくないと中畑は指摘する。
「世界はきわめて多様な存在から構成されている。経験的に出会うそれぞれのものは、「何であるか」を示すウーシアーによって規定されるとともに、性質や量、あるいは他のものとの関係をもつ具体的で「分厚い個体」である。そしてそのウーシアーも色その他の属性も、デュナミスという力能性を現実にもっている。また動植物や人間も、そうしたデュナミスをそれに応じた仕方で受けとり反応しうるような、世界にかかわる能力というデュナミスをそなえている。われわれが生きているのは、このようなさまざまなデュナミスとその発現としてのエネルゲイアに満ちている豊かな世界である。」(211頁)
われわれを取り巻く何の変哲もない存在でさえも、潜在力を発現させることにより、われわれとダイナミックな相互作用を止めることのない「分厚い個体」と表現され、救われる/掬われる解釈に感銘を受けた。だが一方、世界創造もしなければ、われわれに配慮することもしない神は、分厚くない/手厚くない扱いを受けているのではないかと、若干、懸念している。