元慶應文学部教授が選ぶ小論文推薦図書[ 1 ]『世界哲学史』
総合型選抜(AO推薦入試)のプロによる無料相談受付中!
無料個別相談を予約する >
元慶應文学部教授として長年慶應文学部の一般入試・自主応募推薦入試の出題・採点に携わってきた洋々エキスパート講師の堀江聡が、慶應文学部をはじめとする人文科学系統の学部を志す皆さんにおすすめの図書を毎回1冊ご紹介します。今回は、『世界哲学史』です。
現代文を読んで、その一部ないしは全体の理解を問う型の小論文は、大学・高校等などの入試に頻出するパターンである。では、どういうものが選ばれるのか。入試の時期が2月ならば10月(4ヶ月前)には問題文は決定している。選定する者は大学の規模によって、2人から4人といったところだろう。夏休み前に学部長から不幸にも!作問を拝命すると、夏休み中に一人2題ほど問題候補を見繕ってきて、9月には出題者チームで読み合わせをし、最適なものを合議のうえ決定する。したがって、7月には出版されている本からでないと、間に合わない理屈である。
若輩の助教が出題することはない。教授かベテラン准教授である。年齢層は45から55歳くらいが一番危ない。60歳以上のお年寄り?には、もはや入試問題出題といった細かな神経を使う仕事の担当にするには憚られる。入試の総責任者(ミスがあったとき、引責辞任する役職なので、定年前に就任することが多い)、副学部長、学部長秘書(「秘書」といっても、内密の案件の補助者ゆえ、専任教員がなる)、学習指導主任、学生部長、各種研究所の所長、付属校がある場合、その小中高の校長などの役職の方が相応しく、そして役職者は入試を出題することはない。また、(欧米では7年おきに巡って来るはずの「サバチカル」という名の)研究休暇中の者、心身の不調で休職中の者、留学中の者、もともと入試出題に向かない者(作らせてはいけないマル秘の教員)は除外されるから、本気になって誰が出題するのか想像すると、範囲は狭まって、各大学ホームページの専任教員一覧から推して、けっこう的中するものである。
因みに、歓んで入試問題を作る者など誰もいないから、2年毎に出題者は交替し、専門外の教員は生涯に二度とお役目が巡って来ることはない。よほど少人数の専任者から構成される学部、学科はその限りでないが・・・。その点、歴史や文学・語学の先生は可哀想である。隔年くらいで出題を繰り返す労役に奉仕する。その代り、採点はときに何度も読み返し自問自答して評定をつける小論文よりはるかに楽で、すぐ終わる。たとえ目隠しをして採点部屋に入ったとしても、その沈鬱した空気故に、「あ、ここ小論文部屋ね!」と判ってしまうほどなのだ。また、最後の答案の束(50枚とかで綴じられているので、採点に数時間を要する)を手にとる勇気を出した教員には、拍手が巻き起こる。
そういう次第で、一般入試なら前の年の8月から当該年の7月までに出版された新刊書で、高校生でも読み解けるものが最も狙われる。まだ他大学で出題されておらず、手垢が付いていないからである。入試が終わる前に、著者に出題する旨を知らせることはない。ときに事後に苦情を言って来る著者もいらっしゃるから、作問には気を遣うし、著者を選ぶことも必要になって来る。その点、当の大学を定年退職した名誉教授が書いたものなど最も危険であり、事実、過去によく出題されている。母校の入試に使われて、文句を言うOBなどまず存在しないからである。同じ理由から、もっと若くても他大学に転出した者の手になる文章も極めて出題の可能性が高いと言わねばならない。
学者は自分の書いた本を互いに謹呈し合う。欧米、中東など外国のものを研究している学者は常日頃、日本語で書いたものなど読む暇がない。善し悪しはさておき、日本人の手になる研究書など相手にしないという慣習もある。すると、知人から恵贈された日本語の本が研究室の机の近辺に置いてあって、そこから問題をにわか作りするという構図がじゅうぶん想像できるのである。
このたび、筑摩書房80年周年記念事業の一環として、『世界哲学史』全8巻の刊行が始まった。この1月から毎月一冊ずつ出版し、8月に完結するという狼煙があげられた。これは出版社の都合であって、多くの仕事を一度に抱える大学教員にとっては過酷なデッドラインではある。私が過去分担執筆したことのあるシリーズで、第3巻が第2巻に先行して出版された事例もある。締切に間に合わない執筆分担者がいたからである。かといって、無理に間に合わせようとすると、内容に問題が生ずることもある。今回の第3巻(中世I)「超越と普遍に向けて」にも、「新プラトン主義の創始者プロティノスがもとはキリスト教徒であった」という趣旨の記述があるが、これは間違いと言っていい。プロティノスの師であるアンモニオス・サッカスはキリスト教を棄教したという言い伝えがあるから、おそらく師弟を混同したのであろう。
ところで、「世界哲学史」の試みとは何なのか。編者が序章でその意図を説明するように、「哲学史」とは従来、古代ギリシアに淵源し、西洋中世・近世・現代の哲学の歴史を記述することを意味していた。すると、他の時代・地域に哲学は存在しないことになる。しかし、西洋中心主義が反省され、グローバル化喧しい昨今、哲学も「世界化」しようという野望の表明である。第一巻の目次を眺めてみよう。
「古代I――知恵から愛知へ――」
序章:世界哲学史に向けて
第1章:哲学の誕生をめぐって
第2章:古代西アジアにおける世界と魂
第3章:旧約聖書とユダヤ教における世界と魂
第4章:中国諸子百家における世界と魂
第5章:古代インドにおける世界と魂
第6章:古代ギリシアの詩から哲学へ
第7章:ソクラテスとギリシア文化
第8章:プラトンとアリストテレス
第9章:ヘレニズムの哲学
第10章:ギリシアとインドの出会いと交流
従来の西洋古代哲学史に、メソポタミア、エジプト、ユダヤ、インド、中国の思想の紹介が並列されていて、さしずめ高校の世界史の教科書のブラッシュアップの感がある。しかし、内容を読むと、出版社と編者の思惑は各執筆者に浸透せず、哲学サラダボウルの様相は否めない。せめて、文化圏相互の哲学の照応に向け、巻末に複数の執筆者を交えた対談集を置くべきであった。締切に追われた著者・編者たちには「無いものねだり」かもしれないし、このシリーズはまだシュプレヒコールに過ぎず、これからの道を示した目論見としては、目くじらを立てるべきでないかもしれない。ともあれ、各執筆者による論は、最新の研究成果を踏まえた平易な文章である。大学入試・高校入試に出題する材料として文句はない。
どの箇所が出題される可能性が高いか知りたい方は、どうぞ「洋々」にいらしてください。