第60回:法と社会(その5)

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 今回は、「目こぼし文化」について。

 「目こぼし」の類語として、黙許・黙認・黙過・見てみぬふりなどがある。この言葉を法律という分野において用いる際、しばしば議論の対象となるのが「法律の網」だ。広い範囲に網を張るが、実際に摘発するのは稀なケースであり、通常それは「目こぼし」の対象として黙認される、そんな事例が身近なところでも数多く見られる。

 たとえば、「踏み切り前一時停止」という交通ルール。もちろん法律で定められており、私たち国民も運転免許を取得する際、必ず勉強するルールである。教習所内にある踏み切り(の模型)を通過する際、電車なんて絶対に来ないことをわかっていながら、必ず一時停止をする。きちんと停止せずに走りぬけようとすれば、すぐさま横に座っている教官から適切な指導が入る。おそらく日本国内で免許を取得した人であれば、そんな光景を容易に思い浮かべることができるだろう。

 法律では、たしかにそう定められている。教習所でも、たしかにそう習った。しかし現実問題として、全てのドライバーが踏み切りの前で必ず一時停止をするかと言えば、答えは間違いなくノーだ。交通ルールにはそういったものが多数あるように思う。時速40kmの速度規制がある道路でも、平気で時速60kmで走っているし、赤信号でも車が来なければ平気で渡る。探し出せばキリがない。

 ここで問題だと思うのは、それら「法律の網」自体ではなく、あくまで「目こぼし」の方である。同じ違反をする人は大勢いるのにも関わらず、ある人は罰則を取られ、ある人は黙認される。これでは、法律としていかがなものか。「警察に気付かれなかっただけ」という、いわば「運」のようなもので有罪・無罪が決まるというのは、やはりおかしい。目こぼしが存在する法律は、むしろない方が良い。

 普段は「目こぼし」しておいて、ある日突然摘発する。年末になると各々がノルマを達成するために、急に取締りが厳しくなる。昨日までは無罪、今日からは有罪。これでは、「警察が摘発するための、大義名分としての法律」と思われても仕方がない。法律は誰のためにあるのか。平和な社会、その社会に生きる私たち国民のためのものでなければならない。

 「臨機応変」という言葉がある。その場その場によって柔軟に対応する、という意味であるが、法律が臨機応変になってしまうのは、はたして私たち国民にとってプラスなのだろうか。日本社会の根底に根付く「目こぼし文化」には、そんな曖昧な臨機応変さが潜んでいるように思う。

                     慶應義塾大学SFC 環境情報学部 水谷 晃毅