総合型選抜において保護者の果たすべき役割について聞かれることは少なくない。親子間の信頼関係や普段のコミュニケーションの状況によるところもあるので一概には言えないが基本的には本人に任せて、少し離れて見守る、というスタンスがうまくいくことが多いように思う。一般選抜でも同じことが言えるが、一般選抜の場合は本人が言われるがままに勉強する形でもそれで学力が伸びれば合格できる。総合型選抜の場合は受験生の主体性がより直接的に評価されるので、親の指示に従って進めてもうまくいかない可能性が高い。 高校生の数学や物 [→続きを読む]

学校の勉強を何のためにやるのかわからない、と思っている人は多いだろう。私もたとえば漢文をなぜ学ぶのかよく理解していなかった。今考えると浅薄極まりないが当時は漢文を書き下して理解するやり方を学ぶよりも現代中国語をそのまま習う方が役に立つのではと考えていた。役に立つ、という意味では実際もしかしたら中国語の勉強をしていた方が役に立っていたかもしれない。ただ、日本人として母語を理解するという意味で漢文を勉強しておいてやはりよかったと思う。日本人は長い時間をかけて試行錯誤しながら漢字を採り入れて自分たちの [→続きを読む]

小学校の1年生か2年生の頃に担任の先生から「を」の後に読点「、」は打たないと習った。そういうものかと思って素直に従ってきた。数十年経った今でもその原則を基本的には守っている。ただ、実際には明確なルールがあるわけではないし、有名な作家の作品の中でも「を」の後に読点を打ってあることはそこまで珍しいことではない。読点を打った方が読みやすくなる、あるいは、意図を伝えやすくなるのであれば、当然ながら打ったって構わない。 ただ、もしかしたら小学生のときの教えが染みついているせいかもしれないと思いつつ、「を」 [→続きを読む]

たとえば登山道にちょっとした渡渉の必要なところがあったとして、誰かが丸太の橋を渡して歩きやすくなるとそれまで毎回靴を濡らしながら渡っていた人にとってはとても有難く感じる。ただ、丸太を渡す前の状態を知らない登山者は当たり前のように丸太の上を歩くだろうし、何なら丸太の上の歩きにくさに不満を持つかもしれない。丸太のない状況を想定して、丸太が渡されていることのありがたさを感じる人はほとんどいないだろう。丸太を渡す前の不便さを知っている人も最初はありがたく思ってもすぐにそれが当たり前のことになり、徐々に感 [→続きを読む]

テレビで野球の試合を見ているとピッチャーが投げる球を打つのはそんなに難しくないように見えるが初めて野球をやる子どもには簡単なことではない。まず3次元の世界で飛んでくるボールの位置を把握するのが難しい。打つどころか捕るのだって簡単ではない。プロ野球選手が凡フライを難なく取るのを見ると簡単そうに見えるが野球の経験を積んでいないほとんどの人には凡フライでも捕るのはとても難しい。捕るのが難しければ打つのはもっと難しい。ボールの位置の把握が難しいだけでなく、スムーズなスイングをすることも簡単ではない。バッ [→続きを読む]

子どもの頃、海で遊んで帰るときに足についた砂をどう落とすかを自分なりに考えた。バスタオルで払えばよいのだがタオルが砂まみれになってしまうのがちょっと嫌だ。ビーチサンダルを履いて海に入って一旦砂を全部洗い落として砂浜をそっと歩こうとしてもどうしても濡れた足にはすぐ砂がついてしまう。砂がつくとまた一旦きれいにしたくなり海に戻り洗い流すが戻る途中でまたすぐ砂まみれになる。何度か繰り返して結局完璧にはいかないことを理解して、バスタオルに砂がついたり、足に多少の砂がついたままになったりすることを受け入れる [→続きを読む]

元々英語で書かれた本を日本語訳で読むか、英語でそのまま読むかはいまだに迷う。日本語で読む方が知らない単語も少ないし、読むスピードも速い。英語の本1冊読んでいるうちに日本語だと多分2冊読める。一方で英語で読む方が著者の意図がそのまま伝わってくる感じがするのと自身の語彙が少ない分、新しい学びも多い。翻訳されたものを読むと原書ではどう書かれていたのだろう、と知りたくなることが少なくないし、日本語にすることでかえってわかりにくくなっていることもある。毎回迷いはするが今は英語で読むことを選ぶ方が多い。好き [→続きを読む]