自分自身いかに時間を効果的に使うか、ということを常々考えてきたような気がするのに、最近のタイパ重視の考え方に違和感を覚えるのは、それがただ単に時間を短縮する方向に向きがちだからだ。動画を倍速で視聴したり、本の要約だけ読んだり、同じパフォーマンスをより短い時間で得ようとする。コスパでもタイパでも分母のコストやタイムは測定しやすい一方で分子のパフォーマンスを測定するのは難しい。ついつい測定しやすい方に注目するので安い方、短い方に向かいがちだ。費用や時間の削減によって単位当たりのパフォーマンス向上につ [→続きを読む]

百聞は一見に如かず、とは言うが、実際に見たからといって理解ができるとは限らない。見えているようであまり見えていないこともある。海外の国を初めて訪れると自分の知っている人とは違うタイプの人に出会ったり、これまで見たことのない自然や文化に触れたり、大いに刺激を受け、強く印象に残る。現地に行くと五感でその国のことを感じることができる。その地に行ってみないとわからないことが確かにある。ただ、現地に行けば何でもわかるかというとそうでもない。むしろ現地に行ってわかることは表面的なことが多く、その国の歴史的背 [→続きを読む]

わかった!という感覚(Aha! moment)は気持ちのいいものだが、逆にわからないともやもやして気持ち悪い。残念ながら学習の過程ではAha!の瞬間よりも「気持ち悪い」状態の時間の方が圧倒的に長い。新しく学ぼうとすることは何であっても自分にとって掴みづらい、もやもやしたものだ。もやもやしてなかったらそれは自分がすでにある程度理解していることで全くの新しい学びではない。 わからないことの気持ち悪さはうまくいけば理解したいという欲求を生み、人を学びの方向に促すことになる。順調に学習が進み理解に至れば [→続きを読む]

絵を描くのでも小説を書くのでも、新しいWebサイトを作成するのでも新しい商品を開発するのでも、あるいはブログの記事を書くのでも、もちろん、志望理由書を作成するのでも、ゼロから何か新しいものを作るのは楽しそうに見えることもあるが実際のところはとても苦しいプロセスであることが多い。一旦完成するとそこに至るのが必然だったような感じもしてくるが、完成形が見えていない中で進んでいくのは、曖昧で掴みどころがない感じがして、常にもやもや感がつきまとう、なかなかしんどいプロセスだ。同じ作るのでも、たとえばレシピ [→続きを読む]

数学の問題にはいろいろな解き方があるが1つ習得して自分のものにすることができるとその方法に頼るようになる。似たような問題は大体解けるからますますその方法が気に入り、使えば使うほどさらに巧みに使いこなせるようになる。勝ちパターンのようなものができて自分の強みになる。ただ、頼り過ぎてしまうとそれが最適でない場合でもその方法で問題を解こうとするようになる。 ソフトウェアのコードを書くときも同じでまずは1つの方法で実現したいことができるようになる。こうすればできる、というのが自分の中で固まってくるとその [→続きを読む]

日本で裁判員制度が導入されてから今月で15年になる。これまで12万人を超える人が裁判員や補充裁判員を務めたという。抽選で名簿に載った裁判員候補者は裁判所で行われる選任手続きを経て事件ごとにさらなる抽選で裁判員に選ばれる。辞退する人が多いなど課題はいろいろあるようだが戸倉三郎最高裁長官の「導入以来おおむね安定的かつ順調に運営されている」という見解に違和感はない。裁判員制度が成り立つのはすべての人が対等であることが前提になっている。法律の知識がないと裁判員に選ばれても物怖じしてしまいそうだが、自分な [→続きを読む]

中高6年間いわゆる進学校に通ったがどちらかというと放任な感じで勉強を強制されるような感じではなかった。高2の冬くらいまでは試験前の一夜漬け以外いわゆる勉強をした覚えがあまりないし、周りも似たような感じだった。それでも多くの同級生が難関と呼ばれる大学に合格していったのは中学受験の時に蓄積したものがあるのと、いわゆる「勉強」ではない形での学びを積み上げていたことによるのだろう。 「勉強」以外の学びの代表例は読書だ。進学校だからといって皆が本を読むわけではないが一般的な中高生の平均より読書量は多かった [→続きを読む]