ある事柄について知っているということは様々なレベルがある。たとえば、日本という国について知っているか、と問われたときに、日本人であれば、知っていると答えるだろう。ただ、日本について一体どのようなことを知っているだろう?日本に住んでいる人であれば日常生活の様子とか流行っているテレビ番組のことを知っているかもしれない。日本語も理解しているつもりだし、歴史も大枠のところでは理解している。でも、海外の日本研究者と比べたら意外と日本のことを意外と知らないかもしれない。日本の経済状況とか、政治体制とかについ [→続きを読む]

先日藤井聡太王座と永瀬拓矢九段の間で行われた将棋の第72期王座戦五番勝負第2局は76手目まで30分以内に指される、というハイペースな序盤の将棋だった。お互いが研究し尽くした手を打ち合ったということだろう。 将棋には定跡がある。先手と後手がお互いに最善と考える指し方が定跡だ。定跡に沿って指す場合は1手1手に時間をかける必要はない。それまでに十分に時間をかけて研究された手だからその場で一生懸命考えてもそれよりいい手を思いつくのは難しい。先日の王座戦の指し手はまだ定跡といわれるものではないかもしれない [→続きを読む]

自民党の総裁選が告示され過去最高の9人が立候補を届け出た。実質的に次期首相を決める、重要な選挙だが党員以外の一般人に投票権はない。とはいえ、投票権のある議員にとって次の選挙で自身が当選するために国民からの支持率が高い人に党首になってもらうことはとても重要で国民の声はそれなりに尊重される。それぞれの候補者にとって直接的に重要なのは議員票と党員票でそのためのアピールが最優先にはなるが、それらを得るためには国民の支持も必要になるので内輪だけの選挙にはならず票にはならないものの外向けのアピールもする。3 [→続きを読む]

初めて科目としての「歴史」を学んだとき、それは過去の出来事を点で知ることだった。1192年に初めて武家政権ができた、1590年に豊臣秀吉が天下統一した、1867年に大政奉還が行われた、等。その意味を深く考えることはせず、とりあえず言われるままに覚えた。出来事や実施されたことの内容も箇条書きのような感じで覚えた。豊臣秀吉が実施したことは検地と刀狩り、明治政府は版籍奉還・廃藩置県を実施し学制・徴兵制度を整備した、というような感じで。なので「歴史」は暗記科目、と今の中高生が言うのは無理のないことだと思 [→続きを読む]

自分自身いかに時間を効果的に使うか、ということを常々考えてきたような気がするのに、最近のタイパ重視の考え方に違和感を覚えるのは、それがただ単に時間を短縮する方向に向きがちだからだ。動画を倍速で視聴したり、本の要約だけ読んだり、同じパフォーマンスをより短い時間で得ようとする。コスパでもタイパでも分母のコストやタイムは測定しやすい一方で分子のパフォーマンスを測定するのは難しい。ついつい測定しやすい方に注目するので安い方、短い方に向かいがちだ。費用や時間の削減によって単位当たりのパフォーマンス向上につ [→続きを読む]

百聞は一見に如かず、とは言うが、実際に見たからといって理解ができるとは限らない。見えているようであまり見えていないこともある。海外の国を初めて訪れると自分の知っている人とは違うタイプの人に出会ったり、これまで見たことのない自然や文化に触れたり、大いに刺激を受け、強く印象に残る。現地に行くと五感でその国のことを感じることができる。その地に行ってみないとわからないことが確かにある。ただ、現地に行けば何でもわかるかというとそうでもない。むしろ現地に行ってわかることは表面的なことが多く、その国の歴史的背 [→続きを読む]

わかった!という感覚(Aha! moment)は気持ちのいいものだが、逆にわからないともやもやして気持ち悪い。残念ながら学習の過程ではAha!の瞬間よりも「気持ち悪い」状態の時間の方が圧倒的に長い。新しく学ぼうとすることは何であっても自分にとって掴みづらい、もやもやしたものだ。もやもやしてなかったらそれは自分がすでにある程度理解していることで全くの新しい学びではない。 わからないことの気持ち悪さはうまくいけば理解したいという欲求を生み、人を学びの方向に促すことになる。順調に学習が進み理解に至れば [→続きを読む]