第61回:法と社会(その6)

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今回は、「地球環境問題」について。

 100年間で0.74℃上昇。温室効果ガスの排出による地球の急速な温暖化の、数値状況である。この数値からだけでは、本当の意味での温暖化の深刻さや影響というのはあまりわからない。私たちが暖房や冷房を使用する際、「1℃」というのはほとんど差を感じない程度の変化だからである。ただし、そこには「上昇」という紛れもない事実がある。「予防原則」という言葉にもあるように、可能性がないことが証明されない限り、何らかの対策を取ることが正当化されるのである。

 では地球温暖化問題に対する法的対策とは何なのだろうか。最も有名なものの一つが、「京都議定書」である。講義内でも、その具体的内容および効力について扱った。

 京都議定書には、いくつかの問題点が挙げられる。まず、数値目標の達成義務を負っているのが、企業や国民でなく、「国家」であること。国内対策の具体化を進めようとしても、国民一人一人に義務感(危機感)がないため、大きな効果が期待しにくい。次に、先進国のみが義務を負っているということ。世界有数の人口を有し、近年経済成長も著しい中国やインドには、削減義務が存在しない。途上国に産業そのものを移転してしまえば、排出削減努力をしなくても議定書は守られることになる。そしてさらに、アメリカが批准しなかったということ。「何で先進国だけなんだ!やってられん!!」という理屈は理解できなくもないが、仮にも世界のリーダー(というか、中心的な役割を果たしている国)であるアメリカが批准しないとなると、議定書自体の評価にも少なからず影響が出る。

 講義内ではそれら根本的な問題点以外にも、現状としての問題にも触れた。たとえば、「マイナス6%」は言葉のマジックであるということ。基準年が1990年であるため、実際はマイナス11.8%が必要であるらしい。1割以上と言うと、素人にも「結構な量だ」ということくらいはわかる。1989年まで生活水準を落とすのは、贅沢が当たり前になっている日本人のような民族にとって、もはや不可能な話である。「いっそ諦めて2100年タイタニックに」という意見は、日本のような国から多く出てしまうのだろう。

 100年で0.74℃。この数字を、世界中の人々がどのように捉えるか。それこそが、対策の鍵を握っている。

                     慶應義塾大学SFC 環境情報学部 水谷 晃毅