第62回:法と社会(その7)

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 今回は、「裁判員制度」について。

 『裁判員制度は、平成16年5月21日「裁判員の参加する刑事裁判に関する法律」の成立に基づき,平成21年5月21日から始まった。国民が刑事裁判に参加することにより,裁判が身近で分かりやすいものとなり,司法に対する国民のみなさんの信頼の向上につながることが期待されている。また国民が裁判に参加する制度は,アメリカ,イギリス,フランス,ドイツ,イタリア等でも行われている。』

(引用:最高裁判所・裁判員制度HP http://www.saibanin.courts.go.jp/)

 まず驚いたのが、制度の元となる法律自体はいまから5年も前に成立していたということ。制度化するにあたり5年もの長い期間議論してきた、ということを意味する。アメリカやEU各国でも行われているという点からも、もはや裁判員制度は世界のスタンダードであるという印象も受ける。

 しかし私個人の意見としては、裁判員制度には反対である。理由は以下の二つ。

 まず、裁判は裁判官3人と裁判員6人の計9人によって行われる。裁判官は司法を専門的に学んだ「プロ」であり、裁判員は一般の国民から選ばれた「アマ」である。プロ・アマにはそれぞれの良し悪しがあるだろうし、この制度の目的の中には「一般国民(アマ)の意見を取り入れる」ということもおそらくあるのだろう。しかしここで問題なのは、裁判官と裁判員が一緒に議論しながら裁判を進める、という点である。「議論」と言うと聞こえはいいかもしれないが、実際、プロとアマが対等な立場で意見を交わせるのだろうか。表向きには「一人一票の多数決」などといって、対等であることをアピールしてはいるが、裁判員の立場に立ってみれば、プロである裁判官の意見に少なからず影響される気がする。特に、日本人のような「流されやすい国民性」を持つ人にとっては、「長いものには巻かれろ」的な議論になってしまう恐れがある。そう考えると、裁判員は裁判官の主張・判決に同意するだけの、「お飾り」のような存在になってしまうと私は思う。

 また、判決の決め方にも問題があると思う。先日までTBSで放送されていたドラマ「スマイル」の中で、裁判員制度の様子が描かれていた。判決を決める際の流れとして、まず多数決で「有罪」か「無罪」かを決める。そして有罪になった場合、全員でその量刑を話し合い決定するというものだ。これは全くおかしなことではないか。自分が仮に「無罪」を主張していても、多数決で「有罪」となってしまったら、その後は有罪として「量刑」に関する意見を言わなければならない。ドラマでは、さらに量刑が「死刑」にすべきという意見があった。無罪だと言っていた人間に、死刑かどうか意見を求めるのは、相当無理がある。もちろん、死刑も多数決で決めるということ自体にも問題はあるのだが。

 いずれにしても、裁判員制度というのはあまり意味のない、むしろデメリットが大きい制度であると私は思う。この制度に多額の費用をかけるくらいなら、現行の司法制度に新たなメリットを作る(法科大学院の授業料を安くする、など)方が、よっぽど効率的な気がしてならない。

                     慶應義塾大学SFC 環境情報学部 水谷 晃毅