第27回:ヒロシマ1
今回はまたまた連作。内容は夏休み中にダラダラとリサーチ(?)を続けた『広島ピースセンター』について。戦争によって壊滅状態に陥った広島が戦後どのようにして再生していくのか。それをひとりの日本を代表する建築家である丹下健三にフォーカスを当てて話を進めた。戦後の人たちがどのような思いで日本を生き、国を興し、国民や町や家族をどんな気持ちで養うため奮闘したのか。一連の読書で今回はその事をひしひしと学んだ。長い夏休みがやっと終わる。昨日の台風によって運ばれてきた秋の香りが気持ちを充実させ、新たな出来事を予感させる。
※広島ピースセンター: 原爆ドーム一体の記念公園全体。
※丹下健三: 原宿駅前の代々木体育館や都庁を建てた人で、日本建築界の大スター。
0. イントロダクション
戦火によって人々が死に絶え、原爆の爆風と灼熱によりあらゆるカタチが失われた広島には、ただ盆地を囲む山々とそこから流れる川、そしてその先にある厳島の神社がたたずむ。辛うじて防火帯として空地化した線が広島市内を東西に無造作に走るのみだ。1945年11月、政府により創設された戦災復興院が出した全国主要都市115の復興計画に、中央から若手建築家が復興院の嘱託として各都市に2名ずつ派遣されることになった。丹下健三は幼少期を過ごした広島に帰還し、放射線汚染による影響をかえりみず調査にあたった。一年後丹下らによって政府に提出された報告書には、かつて軍部と呼ばれた広島の現在までの都市の歩みを分析し、ついで山陽工業地帯の中核都市として再生させるという展望を述べ、そのための計画を導いたものが記されていた。
1. つなげる
それまでの建築界で建築は単体で扱われていたが、その頃登場しだした「環境」や「都市」といった言葉は建築がヒューマンスケールを脱却し、近代主義にのっとった車社会における高速道路や集合住宅、スカイスクレイパー型のオフィス街、大工業地帯と巨大なものへとかたちを変えていることを示していた。この戦災復興院の計画もそれにのっとったかたちで主要都市を、またはそれ同士を関連付ながらつくっていこうという風潮の中にあったと想像できる。丹下らによる提案も都市を全体でみたときの美観や機能が追求されたかたちとなっていることが、失われた原本を丹念に復元した石丸紀興による研究によって分かる。広島市のコアとなるのはもちろんこの『広島ピースセンター』だろう。爆心地となった相生橋のたもとに位置する原爆ドームから一直線に原爆資料館まで結ばれ、その間には慰霊碑が置かれる。それと直交するように資料館前を平和大通り(「100m道路」という名で計画された道路。戦時中の防火帯がもととなる。丹下の提案の中で道路計画と土地利用計画の内の前者の案に入る。)が計画され、日本の都市計画の根本をなす用途地域性の三地区(工・商・住)に加え特別地区として大学を中核とする文化・教育・スポーツのための文教地区の4地区を結びつなげる架け橋となった。都市や国土は人の移動や交通といった面から押さえることができる、と当時から既に考えていた丹下らしい提案であった。
早稲田大学 創造理工学部建築学科 佐藤鴻