問題への関心
課題や問題にどれだけ近いところ(物理的であれ、心理的であれ)にいられるかというのは、例えば大学入試向けの「志望理由書」とかを書く時にも重要になることかもしれないけれど、あらゆる局面で試されていることなんだな、と思うことが多い。
誰にとってのどんな問題を自分が解決したいと思うのか。その「誰にとっての」とか「どんな問題」というのは、限りになく自分の近くにある何かであればあるほど、その問題の存在に痛みを感じるはずだと思う。そして、その痛みを感じるがゆえに取り除きたいという想いが自分を動かす。その痛みを感じたキッカケが原体験の一つであり、その問題へ自分が向きあう根拠になるんだと思う。
それでも、連続して起こる小さな出来事の中に生きていると、時々その原点から気持ちが逸れそうになることもある。そのたびに、その感じている「痛み」の程度とか、平たく言うと問題への関心とかが、試されていると感じる。問題から気持ちが離れ、自分を守りたい気持ちでいっぱいになったとき、きっと問題とかそういうことはどうでもよくなって、保守的な自分へと変わってしまうのかもしれない。
ちっぽけな自分よりも守りたいものとか、解決したい問題とか、取り除きたい痛みとか、そういうものにどれだけ向き合い続けていられるだろうか。どれだけ問題関心に真っすぐな自分でいられるだろうか。たぶん、今後もその問題の内容が何であれ、そこは変わらず試され続けるんだと思う。