第1回:始まりの始まり
こんにちは。
この度、新連載を開始することになり、今回はその第1回、「始まりの始まり」です。「始まりの始まり」ってどこかで聞いたことがあるって人、そう、現在大ヒット上映中の映画、20世紀少年の第一章のタイトル「終わりの始まり」をもじりました(20世紀少年、とてもお勧めなので、是非ご覧になって下さい!)。
何故、「始まりの始まり」かはおいおい話していくとして、この連載がスタートするまでを少し話したいと思います。
この株式会社洋々の江口さんとは、自分の運営しているHP( http://omu-ao.sakura.ne.jp/ )のリンク提携の件で初めてお会いしたときから、何度かお話しさせていただく機会をいただいていたのですが、その度に、
「日本の教育界ってちょっと変だよね」
という話になりました。教育の現場にいながら、「何故、勉強するのか?」という質問にまともに答えられない先生が多い。偏差値だけが全てで、偏差値が良い人が神扱いされ、偏差値に従って進路選択する。国公立大学しか受けさせない高校がある。そしてなにより、
学んでいる人が、生き生きしていない。
自分がまだ高校生だった頃、友達の一人が受験のプレッシャーで鬱病にかかってしまいました。彼は高校の中でも最優秀ランクの成績をとるほど賢く、周りからみれば何も問題ないような人でしたが、1年、あるいはそれ以上、ほぼ毎日苦しみながら生きていました。
どうして、学ぶことが苦しいことでなければならないのだろうか?
なんだか、こういった教育の現状を変えるような記事を書きたいね。江口さんとはそういった話になり、企画を練りました。
この第1回が始まるまで色々な試行錯誤があり、そしてそれはこれからもおそらく続いていくと思いますが、決定したテーマは「新しい大学選択」。
現在私は慶應義塾大学SFC 総合政策学部という創立約20年という、比較的新しいキャンパスにいるのですが、高校3年間は某国立大学1本を目指していました。
当時は漠然と国を変えたい、そしてそのためには国家?種の試験をパスし、官僚になりたい、その一番の近道はやはり大学であるし、日本の大学は結局どこへ行っても同じ、というより日本の大学教育ってブランドだけで意味がない、それなら一番偏差値の高いところを目指してやろう、そう思っていました。
今の高校生は読んでいるのでしょうか?当時受験界へ最も影響を与えていた漫画、ドラゴン桜でも「日本の大学なんて結局どこへ行っても同じような教育を行っている」と言っていますし、大学へ通っている先輩の話を聞いてみても「何故大学へ行くのか?」という問いに明確な答えは教えてもらうことができず、授業中に「受かること自体がいいこと」以外に大学へ行く意味を伝えてくれる先生もいませんでした。このような高等学校は全国に共通していくつもあるのではないでしょうか?
そのような中、大学へ行くという意味が見いだせず、ただただ偏差値を高校生が追い求める現象が起こる、これは当然の成り行きであると思います。
また実際に、日本の大学教育は世界の中で遅れていると言われているのも事実です。「大学で学んだことなど社会の役に立たなかった」「単位は無難にとっていてほとんど何も吸収していない」残念ながらこういった声は、日本の中でもよく聞かれます。
「大学がいつまでも面倒見の悪い教育をするのであれば、かりに経済学部で経済を学んだところで、世の中で役に立つ経済学は学べないでしょう。そうだとすれば、学生は自分で経済学の本をひもといたり、経済がわかっている人に話を聞きにいったりということをやらざるをえません。 また、法律を学んでも、司法試験に受かるレベルでの実用的な方の学び方を教えてくれないのであれば、それこそ司法試験の予備校にでも通って、わかりやすいかたちで法律の使い方を学んだほうがいいということになります。
これからにしても、大学の法学部の授業を聞いていても、法科大学院に合格できるでしょうか。それより予備校で学んだほうがいいということになるわけです。」
和田秀樹という名を知っている人はおそらく高校生の中では多いのではないでしょうか?彼は大学受験だけでなく、大学生活に関する本も出版しているのですが、上の引用はその一つ「頭のいい大学四年間の生き方」の中での言葉です。大学生のみならず、高校生の方も是非読んでもらいたいのですが、本の中で彼は、日本の大学教育は遅れていて、学生は大学をうまく利用しつつも、積極的に外へ出て活動していくべきだ、と述べています。
そして、そもそも日本の大学など必要ないのでは?という考えの人もいて、それはそれでもっともだと感じます。
ただ、高校生の忙しい時期から社会に出るまで、「生産性から切り離された場所(SFCの講師、山田ズーニーさんの言葉です)」の中で、ゆっくりと社会に対して向き合う場所はそれでも必要であると思います。
企業に入ると、明日の利益を大切にするため、大局的なことができづらくなり、また経済的な面でも自立していかなければならないため、思いきったことがしづらくなります。大学生という時期は、親のすねをかじりつつですが、リスクの比較的少ない世界で将来へ向けてのステップアップを大きく行っていける時でもあります。
そんな期間であるからこそ、やはり大学が、「ただただ無難に単位を取得し、将来役に立たない知識を身につける場」としてだけの場所であることはすごくもったいないと思います。
「一体、何故大学へ行くのか?」
この問いに対して初めて納得いく答えを出してくれたのは、慶應義塾大学SFCの創設ドラマを語る本「未来を創る大学」でした。
実践的な人材とは、必ずしも「すぐに使えるスキル」をもっている人材のことを意図しているものではない。少なくともSFCが育てようとしていた「実践的な人材」はその定義ではなかった。問題の本質を発見し、解決する、そのプロセスとして実際に自分の足で情報を集め、それらを多角的な視点から検討し、一つの形にまとめあげ、表現(プレゼン)することで人々の合意をとって巻き込み、実行する―こうした教育を大学時代に行うことで、社会に出てすぐ役に立つ人材を送り出すことが、SFC教育の一つの特徴であり効果であったことは(卒業生の)回答記述からも読み取れる。
なるほどと思いました。大切なのは学ぶその知識ではなく、自らのテーマに関して、多角的な面からアプローチし、解決していく試み。今の大学のあるべき姿なんだな、と思います。現にSFCは研究会を中心に、自らのテーマで社会に対してアプローチし、それに応じた知識を学べる場所となっています。
大学をただ単に「知識を学ぶ場所」、「企業に入るなら経済学部」「法律家になるなら法学部」など一義的にとらえてしまっては、卒業後、大学は単なるモラトリアム機関にすぎないものになってしまいます。法律関係の仕事につく人は、結局のところロースクールに通い、企業に入る人は、企業に入ってから実際に使える知識、技能を学んでいる。企業の就職活動では、大学での勉強よりもサークルやバイトに関して答える人が多くなってしまいます。
そこで、今回の連載では、大学・学部を「社会に対して、研究・アクションしていく場」としてとらえなおし、改めて大学へ行く意味を積極的に定義していくことになりました。
SFCだけではなく、各大学、学部には研究会やゼミと呼ばれる、教授を中心とした集まりがあり、学んだ知識を生かして研究し、社会に対して様々なアクションがとられています。そういったゼミや研究会を学部ごとにいくつかインタビューし、先ほどの言葉を借りれば、問題の本質を発見し、解決する、そのプロセスとして実際に自分の足で情報を集め、それらを多角的な視点から検討し、一つの形にまとめあげ、表現(プレゼン)することで人々の合意をとって巻き込み、実行する場としての大学をもっと伝えていくことで、高校生に新たな視点で大学を選択してもらえればと思っています。
始まりの始まり。
この連載によって、
「一体何故、大学へ行くのか?」
この問いに対してより多くの人がもっと積極的な答えを見つけられ、大学を目指して頑張ることが少しでも楽しいものになり、
大学を目指すための勉強も少しでも生き生きしてくることが、
始まればと思っています。