第32回:最大多数の最大効率

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最大多数の最大幸福、というのは近代的に民主主義を論じるときの前提となるテーゼである。共同体において最も「正しい」立法原則は、その構成員の最大人数が最大の幸福を得ることであるというテーゼだ。つまり、個々人の”幸福感”の”合計”が最も最大化される立法や行為が正であるということだ。ベンサムによって提唱されたこの考えは、後の哲学者たちによって批判的に継承されていく(幸福感を”合計”できるという暗黙の了解がそこには存在するが、それは極めて非定量的で、容易に歪曲できる言明だ、とか)のだが、そこで現在の日米欧あたりの社会通念として、「自由と平等」と「最大多数の〜」はうまいことマージされて、

「もちろん人は自由であり平等であるが、(与えられた自由や平等の結果どのような格差や不利益が生じても)大多数が不幸ではない、弱者救済や社会保障を含んだ制度や基盤」が調整されてきた。当然、稼いでいる人ほど所得税が多いのを当たり前のように感じる人もいるし、不服な人もいるが、そこの矛盾を飲み込んで社会を動かしていくということである。

で、さらにここに資本主義(と、その結果もたらされる実力主義)がくっつくと、「最大多数の最大効率」という概念も生まれてくる。コンピュータが扱えず、いちいち何かを連絡するのに手紙を書くよりも、メールを打つほうが効率的だ。いや、そもそも、決まりきった業務通達のために連絡員を立てるよりも、その状況であれば機械が自動的にメールを送信してくれたほうが、効率的だ。
まあ、それを言ってしまえば、「通達というコミュニケーションを必要とする何かしらの業務」を、ひとまとめに機械化して、工場にしてしまったほうが効率的だ。

というわけで、自由と民権のための革命は、あらゆる既成の価値観(生まれや育ちや体格や性別やら)から人を自由にし、何であれしたいことを出来る権利を人々に与えたが、その結果として「定量的な価値」はお金、つまり資本に集束して、資本主義を爆発させる引き金となったのだと僕は思う。
しかしここに行き詰まりがあるのは明らかで、実際、イギリスの独立革命以後、産業化が進んできた時代には、機械があまりにも人間の雇用を破壊している(にもかかわらず、機械は生きていくために必要なぶんの給料をもらうことはないから、お金は偏りがちになる)ので、機械打ち壊し運動などが幾度となく行われた。

以上の経緯から200年ほど経ったのが今の世の中だが、この構図に対して、人々の価値観と実態の「幸福感」はどう変化しているだろうか。

更新:2013-02-16 慶應義塾大学 環境情報学部 中園 翔