第33回:鎖国体質の「英語力」
「今日の日本の英語力についてどう思われますか?」
「英語力」ってそもそもなんだろうとか思いながらある講義中の質問を聞いていた。紙面やニュースでは英語のできない日本人が嘆かれ、世界共通の能力試験の数値やビジネス面において他国と比較されている。その潮流に乗るように教育機関も10年近い長期間で英語教育を組んでいる(僕自身も小3から現在までの9年間で英語はずっと必修で、無事卒業すれば計12年間となる)。そしてそんな世に敏感に反応してコンテンツ系の商売ではテレビや塾、書籍からゲームまで一斉に英語力の必要性をキャッチコピーとする。
3000時間。日数にして125日、およそ4ヶ月。
これは英語を習得するまでにかかる時間をテクニカルに分析した結果の数字だそうだ。
教育においてこの3000時間をどう割り振るかを考えるべきらしいが、なぜだか12年もかけてだらだらと同じ内容の勉強を繰り返す。単純に短期留学でも行かせれば良いのに、なぜここまで金と時間と労力のかかる浪費をするのかは謎だ。
日本人の「英語力」の無さに、僕は別の見解を持っている。それは400年近く続く日本の「鎖国」がキーポイントではないか。一般的に鎖国とは、徳川幕府が日本人の海外交通を禁止し外交・貿易を制限した対外政策のこと、ならびにそこから生まれた孤立状態を指す。1639-1854年のことだ。この閉じた内向きの状態は内部環境を暖め、めまぐるしい化学反応をみせた。江戸期における日本の文化的開花は素晴らしいものがある。ジャポニカや伝統論などにみられる「日本的なもの」の誕生だ。
この「鎖国→独自の環境」という構造は現代もさほど変わらない。物流や金融、人間の動きなどハードの流動がある反面、教育や政治や民間企業などのソフトウェアに大きな変化はまだまだ少ない。これは精神的な鎖国が生んだ400年以上続く日本の状態と性質であるが、これが「日本人は外にある情報やモノへなかなか手を伸ばさない」という傾向を生み、結果的にそれが英語というツールを選択・使用しなくなった経緯となったのではないか。単純な「英語力の低下」という話ではない文化的なストーリーが背景にはあるということを理解したい。
早稲田大学 創造理工学部建築学科 佐藤鴻