第34回:目的なき合目的性

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『美とは目的なき合目的性である』
哲学者 イマヌエル・カント

建築学科の授業で設計演習Aというものがある。この授業の光景がとにかく異様だ。小学校の図工の授業を大学生がそろって黙々と取り組み、それを教授陣が眺める、と言えば大方当たっているはずだ。この授業にはクラスが4つあり、それぞれ「デッサン演習・地形と地図の再認識・プロダクト製作・日常の非日常の発見」となる。3週間ごとにローテーションでクラス替えをし、その際に合同授業で4クラスそれぞれの優秀作をプレゼンし合う。この授業は4年生になるまで続く設計のいろはを学ぶものだが、1年のこの段階ではとにかく「創る」ということに触れようという意識らしい。ここでやっと冒頭のカントの言葉に入ろう。あるクラスで「役に立たない機械」という課題が出された。内容は大雑把にこんな感じ。

1. 役に立たない機械を作ってください。
2. 何かの役に立ってはいそうなのだが、それが何かは決して分からない機械です。

この課題の目的は、日常的なものがぜんぜん違うものに見える瞬間を自分で作って驚く、というようなものだ。「機械というのは役に立つものです。建築もそう。逆にいえば、役に立たない機械を見つけられれば、役に立つ機械や建築も見出せるだろう、と。」そいういうことらしい。そしてこれがカントの言う根本的な美の問題と繋がってくる。役に立たない(=目的なき)機械(=合目的性)ということだ。

これは「何かを創る」ときに一番大事なスタンスだと僕は痛感している。自分の言動一字一句に、行動の端々に、意味を求めてみるのは些か勘違いだ。自分でもそこに意味があるのかは分からないけれど、とにかくやり続けることや積み重ねること自体に、実は意味が隠れている。取り組んでいる最中には自分自身ではそのものの価値は見出せていないが、終わってみるとそこには本人が当初狙っていた以上のものがそこに出現する。

このことは僕に「ゴールを設定してそこから逆算して行動する」という方法論を完全否定させたし、ある意味で人生を変えた。計算通り動き、効率良く(≒最も楽な道の選択)生きていこうという銘のもと、人脈・権力・金・知名度を求めて動いている人が多くいる。しかしその計算は合うことはないだろう。人生はもっともっと複雑で、回り道で、厳しく、劇的で、予想不可能だ。だからこそ、その中にある瞬間瞬間では常に全力を全て振り絞っていくべきなのではないか。小さい頃父親に「お前の仕事は遊ぶことだ。おれの仕事は働くことだ。」と言われた。だから必死で遊んだんだ。

「目的なき合目的性」
それは芸術や美に限った話ではない、何か人生の教訓のような、そんな偉大な哲学者の重みのある言葉だ。

更新:2012-01-14
早稲田大学 創造理工学部建築学科 佐藤鴻