第1回:旅行と愛国心

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スペインのバルセロナからイタリアのベニスへ渡りローマに入って、食中毒と共に先日東京へと帰国しました。楽しかったです。

スペインにしてもイタリアにしても、一目その街に触れるだけで歴史を感じる事ができました。それは偏見と先入観の話ではなく、単純にそう「感じた」という感覚的な話です。何が僕にそう強く訴えかけたのか不明なまま帰路につき、機内ではその問と激しい腹痛とに悩まされながら帰国しました。

成田から都内中心部に戻ってくるバスの中で、窓の外を過ぎ去っていく景色に目をやりながら僕は先の問が解けていくのを腹痛の解消と共に感じました(本当に辛かったんです)。というのも、美しくライトアップされているはずの都市がそこにはなかった。そして広がる街に建ち並ぶ建造物には1500年来の文化の深みがチラリとも見えない。色や形態、素材全てがどこかパッとせず、「日本だ!」と僕に語りかけてくるモノがどこにもいなかった・・・。この「のっぺら坊」な都市東京を見て、先の問である「見える歴史」というのを掴んだ気がしました。

それはつまり、愛国心のカタチとしての表れではないでしょうか。スペインやイタリアでは皆が自国を誇りにしていました。タクシーの運転手でさえ自分の街の歴史を深く知り、まるで母親の話をするように親身になって話します。ベニスへの途上、ローマ広場まで空港からタクシーに乗ったときのこと。その運転手は拙い英語を用いて凄まじい勢いと興奮で、ベニスという街がどれだけ魔法のようであり、世界に誇れる地元なのか!といった事を唾を飛ばしながら話す姿には激しい感銘を受けました。このような姿勢が日本になくなってきたのは「戦後」や「ポストモダン」と呼ばれている期間に起こった様々な事象が関係していると感じます。日本という国の全てが、中にいる人々は変わっていないにも関わらず、180度ひっくり返りました。「愛国心」のもとアメリカ等先進諸国に追いつくため全面的に工業化を進めました。そのためには安定した国家(=憲法など)、均質な国民(=公教育の導入による識字率の向上や標準語の定着など)、国民統合(=国家神道と政教や公教育の関係など)などの改革が要求されたはずです。しかし、それによっていつしか掲げたはずの「愛国心」を次第に見失い始めてきてしまった。。。

「愛国心」とはとても堅く大きなテーマに聞こえるかもしれませんが、もっと小さなスケールで考えてみればとても身近なはずです。例えばスーパーを考えます。日本のスーパーの商品のディスプレイはとてもつまらない。イタリアでは色彩や形、大きさから質感などを意識してキレイに商品が棚に並べられていました。それは自らが経営するスーパーと自身に誇りを持ち、他人にそれを出来るだけ素晴らしいと思ってもらいたいと願っているからではないでしょうか。そんな彼らの資本主義的考え方ではない、どこかアーティスティックな思考は、愛国心のような自分を取り巻く物事への誇りとそれを人にうまく伝えたいと願う心です。僕の住む東京という街が無表情に見えたのも、資本主義的に利潤と効率のみを追求した結果、戦後の日本国のように自分の周りを見回してみる事を忘れてしまったからなのかもしれません。僕たちは現在のこのような日本の状況の中、どのようにして自身の価値を見いだし、いかに社会へ貢献していけるか、といった事をひたすらトライしていく事になるでしょう。僕にとってこの旅の経験がある意味そのことの原動力を与えてくれたことはとても良かったと思います。他の人達も、きっとこういった経験や体験がある事でしょう。僕は何かを通して人々がそれを少しでも共有する事ができれば面白いと思っています。

早稲田大学 創造理工学部建築学科 入学予定 佐藤鴻