第7回:本質と本質のようなもの

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物事には「本質」と呼ばれるものが常にある。例えば消しゴムの本質は消すことであり、鉛筆の本質は書くことだ。しかし世の中にある物事の多くはその本質を覆い隠している。なぜならこの本質はいつでも「イイモノ」とは限らないからだ。

組織を運営するにあたって、構成員には何かと物事を説明して実行へ移さなければならない。そうしたときに、いちいち「本質」を一から伝えて話をつける必要はない。あえてそれは隠し、表向きの「本質のようなもの」を表明することで彼らを納得させ、真の目標を達成することが重要なのではないか。建築でも同じようなことがある。建築家は本当に自らが狙うところはどこにも表明しない。それはコンセプトや形態といったものの中に何重にも覆い隠されて紛れ込んでいるもので、実際に彼らが提案しているものとは異なるものである。

このような視点で動きまわると、社会や学校、企業、マスメディア、スピーチ、イベント、本などなど様々なものがこの「本質」をまとい、それを極めて達成するために対象を動かそうとする「本質のようなもの」が表層に出てくるという二重構造(もしくは三重や四重)があることに気づき始めた。

しかしこの二重構造を読み取るのは決して簡単ではない。それにはまず「本質」をその提供者自身が気付いていないことがあるということ。そして逆に「本質」が欠け、「本質のようなもの」だけをとって付けた様なものがあること。この二つは対極的な話だがどちらも扱いが難しい。前者は時代背景や環境を慎重に読み取る必要があり、後者はどこからその「本質のようなもの」の植え付けがなされたのか(つまり黒幕は何なのか)を発見してそっち(「本質」)の追求への早期的移行が必要だ。

最近の自身の思考回路や着眼点の変化には自分自身驚く事が少なくない。生活習慣や環境の変化が個人に与える影響の大きさは計り知れないというが、それに直面してみて改めて思い知らされた文句だ。そういえば昨日からやっと大学のガイダンス期間が始まった。二週間後にはもう授業もはじまるが、そこでは間違いなく更なる自らの変化が待っている。今度はどう化けるのか。自分でありそうでそうでないアンコントローラブルな部分の自分に、好奇心と恐怖心を矛盾的に持ちながら待ってみることにしよう。

早稲田大学 創造理工学部建築学科 佐藤鴻