第24回:松屋の教え

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前回の記事では松屋を始めとするファストフードを「エネルギー補給工場」と呼びその実態を僕の視点から書いてみた。今回はその一連の「合理的」栄養摂取のプロセスから更にどんな事が考えられるかを考察してみた。

冒頭で合理的という言葉に「」を付けたのを疑問に思った方もいるかと思うので、まずはそこから入ることにする。そもそも「合理的」という言葉には2つ意味があるのを確認したい。『1.むだなく能率的であるさま』 この意味は恐らくファストフードのスローガンを体現したようなものだ。客側は食事の時間と食費の節約、店側は労働負担の軽減、と双方が省けることを省いているようだ。正に「合理的」。そして『2.道理や論理にかなっているさま』 これはどうだろう。入店から食して退店するまでにわずか20分しかないこの一連の動作は、果たして道理や倫理にかなっているといえるのか。そもそも日本において食事に時間をかけないというのは失礼なものとされてきたはずだ。茶道では茶室に入りそこから一杯の茶をあずかりお暇すのには時間をかけるのが普通だ。料亭にいけば食事は美しく飾られ短歌のように熟慮された食事の順番をゆっくり楽しむものである。食事とは日本において季節を感じたり相手と心を通わせたり空間を愉しんだりと濃度の高い空間と時間の場であるだ。これを単にエネルギー補給と取り違え金権的世界の「合理的」プロセスの一部として組み込んだ近代の食品産業の行為には疑問を感じる。

今回は食品界から今日の高効率・高経済至上の世界を批判的に見てみた。しかしそれにしてもこのような合理性や金権性の追求に関してなかなか腑に落ちない点が今日自分の中では目立って見えてくる。それはやはり僕が厭世主義の色眼鏡を通して毎日をさまよっているからだろうか。しかしそれにしても皆もう少し肩の力を抜いて生きて行くことは出来ぬものか。「腑抜け」ること以外で「テキトウ」を表現することは出来ないか考えている夏休み後半だ。

更新:2011-09-07
早稲田大学 創造理工学部建築学科 佐藤鴻