第29回:家の外の都市の中の家
家の外の都市の中の家
-house inside city outside house Tokyo Metabolizing
@東京オペラシティアートギャラリー
————–kiritori—————-
『自分たちの便利な生活が遠くの場所で作られるエネルギーによって成り立っていること、自分の受けているサービスによって街の仕みが大きな制約を受けていること。そう言ったシステムがしらずにつくられていることに意識的になろう。罪悪感や社会の不透明さへの憂鬱から逃れ、自分たちの生活が身の回りの小さな仕組みによって成り立っている明確さを手に入れよう。』
先の文は2010年の第12回ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展日本館の帰国展である 『家の外の都市の中の家 -house inside city outside house Tokyo Metabolizing』 の最後に展示されたコトバだ。鐘が脳内で響くように酷く染みてきた。「罪悪感や社会の不透明さへの憂鬱から逃れ」る自分への自戒だろうか。建築学生として「自分たちの生活が身の回りの小さな仕組みによって成り立っている明確さ」を得られないことへの焦燥感か。何にしろ、展覧会に足を運ぶとその度に自らの無知を覚える。同時にそれまで知ることのなかった世界観を手に入れることへの高揚感や安心感、または恐怖感が生まれる。そんな壊されたり与えられたりする一連の生産的な体験を得るために僕は展覧会に足を運ぶ。
今世界でメタボリズムが新たな認識を得ているようだ。レム・コールハースが随分前からメタボリスト相手のリサーチを始め、UIAの東京開催やメタボリズム生誕50周年やメタボリストの寿命ぎりぎりということもあるだろう。とにかくこのメタボリズムが内からも外からも盛り上げられている。世界で確立した日本建築界のアイデンティティの根源に迫る、といった感じだろうか。しかしTokyo Metabolizingといった副題が付けられているこの展覧会を見渡しても、あのドギツい構造体や夢物語はどこにもない。女性初のディレクターに選ばれた妹島和世らしい透明感のある空間が提供された「現代版メタボリズム」と言えるのか。SAANAは自らのプロジェクトを綿密にプログラムされた構造物ではなくあらゆる可能性に開かれた環境として捉え、人の内在的な創造性を信じ、建物がその利用者にとって完成されることを期待する日本の建築家たちの先頭に立っている。伊東豊雄や石上純也、藤本壮介などがいい例だ。2010年ビエンナーレのテーマは「People Meet in Architeture」でなんとも日本的な建築へのアプローチだと感じる。日本チームの出展はそれの代表国となる素晴らしいものだったようだ。
『周囲の建物のグレインと合わせるようにボリュームを分割し、周囲に柔らかく光や風の廻る環境を』
西沢立衛・アトリエ・ワンらと並ぶと最年長の北山恒だが、そんな彼の言葉は印象に残る。「祐天寺の連結住棟」は木造住宅の立ち並ぶエリアに立てられた集合住宅で、ボリュームの調整と細分化、そしてそれらの外部との関係性を保った配置が特徴だ。現代の「離れ」「縁側」的な要素が際立ち、「ご近所付き合い」という文化に根ざした地域との関わりが提案され、戦後からの第3世代の多い現代東京の需要に合わせた素晴らしい建築だと感動した。国際展の中これら一連の「日本的なもの」が目をひくのには納得がいく。そしてセクションが移り、東京がどのような性格の都市でそれらは何が起因になっているのか、それの歴史や現状を万人にわかりやすく多くの挿絵と共に説明する。パリやニューヨークとの比較をしながら国際的視線も意識しつつ示唆される現代東京の問題点。それが冒頭のコトバに集約されているようだ。ポップな外見とは裏腹に非常に重いテーマをまとった展覧会という印象だ。さすがに国際展の一部と高い評価ができる。
早稲田大学 創造理工学部建築学科 佐藤鴻