第43回:Automatic Writing
これからある文章を読んで頂きたい。今回はこれについて記すが、軽い気持ちでさっくりと読んで頂いて構わない。ではまずは一読。
“ これからのじぶんの生活の仕方が分からない。これはリアルの問題でありイデアで私と彼女と彼女の問題でもあるようなないような。こんなことは実際に起きるべきでなかったとも言えるのだがまあしょうがないだろう。事物が可逆的に進むことは決してないのだから。そうしてこうして進んで行った先には何があらわれるのだろうか。クマと泉とその山が私を飲み込むだろう。こんな日常が1000年も繰り替えされわたしはここにいるのだ。照れ隠しでさえ自分を表現できなかった自分はいつしか美人のネコが話しかけた自分をいつしか無心にさせた。そうして彼女は僕の目の前から逃げるようにして金魚を追いかけながら風にさらわれたのだ。ヒゲは僕のしたにいつもぶら下がっているのだけれどもしかしたらそれは僕がヒゲにくっついた毛のような存在かもしれない。歯磨き粉を楽しそうに食べているあのネコもいつしか虎とさえ戦うようになるだろう。僕はそれをこちら側から見ているのだけれど実はそれがあちら側にいる自分とも重なっていく。両面鏡の中に誘い込まれた僕の血は青く深海のような深い不過視の世界に吸い込まれるのだった。あれから13年がたち僕らは再会するだろう。あのおどろおどろしい夏の夜の祭りに誘われて。下駄の音と綿あめの比率に笑いながら人と人の間をすり抜けたその先にはあなたがいる。どうしてここにいるのか。僕を置き去りにしたあなたは僕が置き去りにしたのだと訳の分からぬことを叫びながら黄色いタクシーに乗り込み走り去る。それはニューヨークの刑務官さえ巻く様な一瞬の出来事。一晩のかげろう。それは虹と虹の間の薄い切ない空気。そして地球の反対側でも同じ風が吹いている。 ”
Automatic Writing、日本語で「自動筆記」というものがある。これは深層心理にあるアイディアを取り出す時に作家が使う方法のひとつで、ご存知画家サルバドール・ダリの行ったシュールレアリスムと同様のものと言える。無心で手だけを動かし執筆するというもので、意識の統制度が低ければそれだけ心理の深い所にある記憶や感情やことばたちが顔を出してくるということだ。「常識やモラルに捕らわれていない、”心の純粋な自動作用”による文」が書ける。(『シュルレアリスム宣言・1924年』より)
興味深いのは、ここにはあるはずの無い理性が、ストーリ性という理性的なものによって存在していることだ(正確には単なるシークエンシャルな流れと言うべきか)。筆者の人生への苦悩から始まり、その感情が異性との苦悩に自然とシフトすると、それが抽象度を上げて泉や山を越えて深い森を進んで行く情景描写へとなっていく。このように文章としては未完なのにも関わらず裏打ちする感情からストーリー性が読み取れる。正に物思いにふけっているいる時の頭の中そのものと言えるだろう。是非一度トライしてみると意外な発見があること請け合いだ。
早稲田大学 創造理工学部建築学科 佐藤鴻