第45回:安定を疑え
家や自室は人の人生を蓄積する「物」としての場所だ。この観点から見ると家とはその人間を入れる箱としての、またはその人間の具現化(いわばその人のコピー)としての、ハードウェアである。しかし解像度を上げて自分の部屋を見回してみよう。自分を教えた本たち、使い慣れた勉強道具や文房具、歴代のマイベストアーティストたちの写真、衝動買いした芸術品、なんとなく自分なりには整理されたプリントの山々、捨てられない旅先のパンフレット、書き溜めたノート、古着屋で偶然に見つけた洋服、拾ってきた綺麗な石ころ、夏の虫を追い払う虫除け、友達に借りたCD、小学校から捨てられないぼろぼろの学習机、何度か張り替えた壁紙、地震のとき激しく揺れる照明、一年前に買った財布のパッケージの箱、空気の抜けたバスケットボール、使わなくなったスポーツウェア、使わないけど捨てられない貰い物、時々見つかる昔の消しゴム、張ったまま剥がせないシール、年末にまとめた段ボール、たまにつける昔の香水、点在するライター、電池を交換しないまま置いてある時計…。
これらはただの物である。しかし、それと同時にこれらが持つその記憶としての「事」でもある。つまり家とはハードウェアでありソフトウェアでもあるのだ。この込み入った状況が、人がこの「家」というものから脱出できない由縁だ。しかしここに僕はイヤなほど懐疑的になれる。僕はこのような人が「安定」する場所に対して懐疑的だ。家族、友人、家、職場、学校、所得、資産、電気、飲食、思想、行動、集団、習慣…。全てこうであることはない、と常に思う。でも抜け出せない。それは先にみられるような「込み入った状況」があるからだ。ある人は言う。それに気付いているからこそ抜け出さないのだ、と。右手から左手へ。そうやってバトンを回して行くとまたバトンは右から回ってくる。それをひとり逆を向いて左から右へ流すことが、少なくとも許されるべきだ。それもかなりのリダンダンシーを持って…。
情報社会はあなたを見つけ出すだろう。家も携帯電話も定位置も持たないあなたの、物や位置や行動範囲を特定するだろう。だから全てモバイルで良い。それでも寄り所を人は必ず求める。それはどこへ向かうのか、それはなぜなのか。もう少し考えてみたいと思う。
早稲田大学 創造理工学部建築学科 佐藤鴻