第59回:Strange Houseが教えてくれた事 ~震災から2年目の今日~ 2
「Strange House」は古着屋だった。しかし置いてあるものといえばブランドのパロディTシャツや時代感の合わない品ばかり。リメイクでオリジナルTシャツも置いてあり、気ままな線で簡単に描かれた絵がプリントされている。気の抜けた針金ハンガーで洋服の肩はでろんと伸びている。典型的なひと時代前の古着屋だ。せっかく来たのでせめて一通り見てから帰ろうと決め、順番に棚を見ることにした。小物などが陳列された棚を見ていると、その下にくたくたのバンズやナイキの靴が並べてあるのが見えた。しゃがみ込んでひとつひとつ手に取って見ていると、並べられた靴の更に奥に、壁に立てかけられて一枚の絵があった。その絵はオリジナルTシャツに描かれた様な絵ではなかった。明らかな創作意欲を持って描き上げられていたのだ。淘汰された色合いで乱雑に塗り重ねられたキャンバス。その中心はポッカリと白抜きされていて、そこには細いサインペンで細かいドットがびっしりと埋め尽くされるように描かれていた。激しい躁鬱だ、と思った。その刹那、全てが繋がった。
地勢と建築とそこにある生活と精神と。地勢は大きな時代そのもので、長い時間単位のもとにある。その地勢・郷土には建築や料理、服、習慣などが順番に生まれていく。これは大きな流れであり、同時に、呼応し合う相互関係でもある。これはどうしても覆す事の出来ない「結い」だ。これを人は小さい力ながらに壊して塗り替えようとしたり、それを阻止して遺そうとしたりする。しかしその大きな流れは、誰かが何かの作為を持ってコントロールできるものでは無いのではないか。では人はその「結い」に対して何も出来ない、するべきでないのか、というとそれもまた違う。今日で震災から2年が経つ。あのとき、僕たち日本人は不思議な力を発揮した。それは海外メディアに多く取り上げられ話題となったりしていた。しかし当人たちはそれは自然のことだったろうから、力を発揮した事も、それが何だったかも分からなかった。そして僕たちは「結い」に従って震災を忘れ、また忘れようとした。一部の層を除き、圧倒的な損失を前にしてもあの事件とそれがもたらしたものから目を背けたのだ。僕にはそれは至極自然の事だと思えた。しかし同時に、あの圧倒的なネガティビティーは僕の好奇心をくすぐる。Strange Houseの時と同じ気がする。目をそらさず、ひとつひとつ棚を奥まで見ていく事が大切な気がしてならないのだ。
早稲田大学 創造理工学部建築学科 佐藤鴻