第4回:児美川孝一郎 法政大学キャリアデザイン学部教員
第3回目の「新しい大学選択」。今回は、最近新しく法政大学にできた、キャリアデザイン学部の児美川先生へインタビューを行いました。教育に携わられている児美川先生の個人的に書かれているブログを度々拝見しており、この方の大学教育に対する考え方、また大学入試に関して考えられていることを是非お伺いしたいと思い、インタビューさせていただくことになりました。
今回から大学における「教養課程」というものの意義を質問項目に加えてみたのですが、児美川先生が、この質問への答えに上手く答えてくれたように感じます。AO入試に対する考え方も伺っているので、是非最後まで目を通してみてください。
児美川孝一郎法政大学キャリアデザイン学部 専任教員研究会HP
・児美川先生のゼミナールについて教えて下さい。
キャリアデザイン学部自体は新しい学部で、卒業生も3期しかまだでていません。ですからまだ決まった型があるわけではなく、やり方は変えていっています。キャリアデザイン学部は学際的な学部で、教員も色々な分野の人がそろっているので、例えば私は教育学をやっていますが、入ってくる学生に教育学の基礎があるとは限らないんですよ。だから文献購読によって基礎的なことを学ぶこともやるし、学校の先生が集まって教育に関して話し合う場に学生を連れて行き、一緒にディスカッションしたり、大学に持ちかえってきて自分たちの視点でもう一度議論したりもしています。場合によっては自分たちがテーマを一つ決めて、それに関して訴えたい内容を寸劇でまとめるなんてこともしています。学生も年によって違うタイプの人が来るので、同じ型ではできないんですよね。私自身、昨年1年は在学研究に出ていましたので、今年は1から仕切り直しです。私の考えでは、学部レベルのゼミでは、こちらが専門知識があるからと言って、それと同じことをやってくださいという場ではなくて、知的なスキルを養う、何かを発表してまとめる、現場へ行ってフィールドワークもどきなことをやる場とわりきっています。本格的に専門的なことがやりたい人はぜひとも大学院へ行って下さいというわけです。
・どういったテーマでこれまで卒業論文が書かれましたか?
ゼミナール全体としてこれやろう、ということもありますが、ゼミに入った時点で個人テーマを持ちなさいと言っていて、すごく広い分野、中には教育学と言えるのかなあと思うような分野で学生自身がテーマを設定しています。例えば、フリースペースなど不登校の生徒の居場所がすごく多様になってきていて、東京シューレという有名なところは構造改革特区の認定をとって学校を創っているわけですけれども、フリースクールって、本来は学校的な学びに馴染めない人が行く場所なのに、どうして学校を創っているんだという「矛盾」みたいなものがある。そんなことを調べて書いた学生がいました。他には、「企業が学生に求める力と大学が学生につけようとする力にはズレがあるのではないか?」という視点で大学教育論を書いた学生もいたし、女性の生き方にかかわって、ワークライフバランスに取り組んでいる企業のことを調べた学生や、「笑いと人間形成」というテーマで、本人の成育史と周りからの視点の双方から高田純次を取り上げた学生もいました。「スクールカースト」なんてテーマもあったし、本当にテーマは色々です。本当の専門は大学院でやってくれと思っているので、自分が調べたいと思うことで書いていいよと言っていて、その代わり、手法だけは論文的にやれと指示しています。私がこの学部に来る前は文学部教育学科にいて、その時の学生は当たり前のように教育のことを書いていましたが、キャリアデザイン学部では多種多様です。
・児美川先生は大学におけるゼミナールのあるべき姿、意義はどういったものだと思われますか?
高校までの学習の仕方を「ひっくり返す」ところであると思います。高校までのようなものが本当の学習ではなく、自分で課題を見つけて、自分で方法を見つけて、外へ出て行って、まとめて、叩かれて、また考え直してというのが学習だと思っていますが、その一連の手法は社会に出ていっても役に立つものになると思います。従来の日本社会であれば今までの高校までの学び方でも良かったかもしれませんが、現在はそうはいきません。自立的に問題発見、解決、調査、探究ができる必要があり、ゼミナールはそのスキルを養う場です。決められた試験もなく、出席で縛るようなこともしていません。3年終了の段階でレポートを書いて、4年次に卒業論文を書ければよいということにしています。本当は1年生の始めの授業からそういったやり方でいきたいのですが、1年生の段階ではそこまでできなくて、つい教えてしまう、普通の板書の講義をやってしまうんですよね。だから、せめてゼミだけはそうじゃないようにしています。
・大学における「教養課程」の意義が最近問われていますが、「教養課程」は大学においてどういったものであるべきだと思われますか?
本当は、専門とも深く連携した教養課程がベストなんだと思うんですよね。でも私たちの大学では専門課程と教養課程の担い手が分かれていて、人事やカリキュラムは全て教養課程の担当組織の方へ任せっきりになってしまっているきらいがあります。これは、あまりいい状態ではないと思っています。ただし、法学部の教育課程が法学だけで成立していてもいいかというと、それは違っていて、幅広いリベラルアーツを学ぶ、文系の人間も自然科学を学ぶといったことはあるべきだと思います。そう思うのですがさらに言えば、何のつながりもなしに学生へ教養課程を与えても、どうすればいいか困るとも思うんです。専門的なこともちらちら見せながら、幅広く学ばせてつながりを感じさせること、これが大事で、西洋史の先生が古代ローマを教えてもいいのですが、古代ローマを通じて学んだことが、他のことへとどうつながっていくのかを意識する必要があるのだと思うんですね。もうひとつ、今は積み上げ方式になっていて、教養を50単位とったら、その次に専門を80単位とるといった風になっているのですが、もう少し「入れ子状」になっていてもいいんじゃないか。専門を少しやった後に教養をやったら、学生は「遠いことようで意外に近い、関連している」ということに気づくかもしれないじゃないですか?だから履修の仕方についても、もっと専門と教養を関連づける必要があるのではないか、という観点から改革は必要だと思っていますが、私自身は教養課程の廃止論者ではありません。
・児美川先生が求めている生徒、学生はどういった人でしょうか?
キーワード風に言ってしまえば、自立型の人材、自分で決めて切り開いていける人です。大学を出た時に困らないような人を求めています。世の中にはキャリアカウンセラーや学習カウンセラーといった人がいて、そういった職を専門職と考えるなら、キャリアデザイン学部はその職の基礎となる科目をたくさん置いている学部です。専門学部としての専門性としては将来キャリア支援、労働・学校・図書館・博物館、などフィールドは様々ですが、それを行っていける人を育てるというのが公的なことですが、正直卒業生300人がその職に就くわけではありません。むしろ自立型の人材になってほしいということが求めていることで、実際卒業生も大企業志向ではなく、ベンチャーや、世間的には知られていないけれども良い仕事だからといった理由の進路選択をしていました。
・児美川先生がAO入試(キャリアデザイン学部では自己推薦入試と呼ばれています)で求めている受験生はどういった人物ですか?
キャリアデザイン学部には一般入試が大きくあって、さらに指定校、付属、社会人、スポーツ推薦もあり、AO入試で採っている定員はせいぜい30名強です。だからAOで求めているのは、一般的な学力が平均的に高いといった人ではなく、大学に入ってからやりたいことが明確で、自ら動ける学生です。大学に入ってから何をやりたいか考えたいという人はAOには向いていなくて、今までも何かやってきて、それをさらに深めるには大学が必要なんです、という人が向いていると思います。 ただ、入試経路は多様であればよいと思っていますので、どれか一つの選抜方法がベストであるとは思いません。学生同士もその方が刺激し合えて、いい関係が生まれます。実際AO入試の合格者は何でもやりますといったかたちで自分たちでサークルを創ったり、学部イベントの応援団を創ったり、下級生のサポートをやりたいなどと言ってきたりするのですが、それらと一般入試での合格者はやはりカラーが違う、けれども学年が同じであると混ざっていくんです。また社会人入試での合格者が、昼間仕事して、夜必死に勉強しに来ていると18歳ののほほんとしている学生たちには大きな刺激になったりもしています(笑)。しかも社会人たちは心得ていて、学生を巻き込んで話をしてくれたり、ゼミになると面倒をみてくれたりといったこともあるんです。AO入試というのは採るのが難しく、時間もかかるんですよね。けれども今のところ意欲がある学生を、学力との相関があるのかどうかが問題なのですが、いろいろな面で引っ張っていける学生を採れているという点では成功していると思っています。
・AO入試において過去にやってきたことはどれほど大切になってきますか?
「~~で全国2位でした」というレベルのすごさではなく、過去において自分がやってきたことに対し、自分にとっての意味という点でも、コミュニティに対する貢献という点でも、それを現時点でどのように振り返り、意味づけができているかということを、面接等でかなりみていています。どんなに全国的に優秀な成績を収めていても、それができてない人は駄目で、例えばスポーツだけを何も考えずやりたいという人なら、スポーツ推薦でくればいいわけです。サイクリングが好きで、全国を興味もって旅していました、なんていう「自分探し」系の少し怪しげな人もくるけれども、旅の中で何を学んだのかということがきっちりと話せて、自分なりに消化できていたら、それは評価します。そういう意味でこれまでやってきたことは大きな比重を占めてきます。面接だけではなく書類選考の段階でもそれは大切で、これまでの振り返りができていない人は、その後大学で何を経験しても大きな効果が出るようには思えません。
・キャリアデザイン学部のAO入試では小論文が課されていますが、AO入試において小論文を課すということに対してどう思われますか?
これまでの実務的な感覚から言うと必要だと思います。高校の成績が、正直に言ってしまうと当てにならないのが現状ですから、小論文の中身というよりは、小論文がまともに書けない人が良い成績をとっていても本当か?と疑ってしまいます。そういったチェックとしては良いのではないでしょうか。一般入試を課さないので学力的な「担保」をどこで確保するかということは必要で、そこで小論文は役に立つと思います。文章を与えて、読ませて、読解できた上で自分なりの考えを書かなければ駄目と言っているので、人並みの読解力があるかとオリジナリティはある程度みえると思います。ただ、確かに小論文を読むのは大変ですので、本当は高校の成績があてになれば、出してきてくれた書類とその成績だけでいいとも思うのですが。
・他大学ではAO入試の中でディスカッションも行われていますが、AO入試においてディスカッションを実施するということに対してどう思われますか?
一つのアイディアではあると思います。私たちは教員2人、受験生1人の面接を行っていますが、他人の意見を聞いて、改めて考えたことを発言するなど、学生同士で語らせることでできてくること、我々にとってもみえてくるものもあるのではないでしょうか。ただ、企業の採用でのディスカッションは社会性やリーダーシップなど横の関係もみているかもしれませんが、我々は学部入学の要件としてそこまでは要求してはおらず、寂しげに孤立していても本人にやる気があって、大学生活を送ることができれば構わないと思っていますし、自己推薦入試でディスカッションを行っていた時もその観点での評価はしていませんでした。ただ、言えることは、ディスカッションを取り入れた選抜というのは、実際問題として難しかった。例えば6人のグループでやっていると1人2人面白い人がいただけで全体が良く見えてしまうこと、逆に全体が個人の足を引っ張ってしまうことがあるんです。時間もすごくかかるし、私たちがディスカッションをやめたのは、先に述べたように企業と違って協調性やリーダーシップを見ることが主眼ではないのだからという判断からです。
・AO入試の審査官、面接官としてもつべき、あるいはもたれている心構えはどういったものでしょうか?
私たちの学部で一番問題になっているのは、教員同士で評価の観点が違うんじゃないか、誰にあたったかで合否が変わってきているのではないかということです。一通り面接が終わったら、みんなかなり疲れているのですが、一か所に集まって「うちらの組ではこういった学生がいた」といった情報交換をしていて、1年目よりは2年目、2年目よりは3年目とうまくすり合わせができていると思うのですが、それでも人によって個性は違うのでやはり難しいです。 その上で二つ目に挙げるのが、予備校関係の対策が随分進んできたということ。高等学校もそうです。しゃべり方や入室の仕方がしっかりして、コミュニケーション能力もあってすごくはきはきしゃべる人もいるのですが、それに騙されてはいけません。本物かどうか、要するに18年間の体験に裏づいたものがでているのか、あるいは単にしゃべるのが好きで訓練をしているから上手なのかの違いを見抜くことが必要です。だから、嫌われるだろうと思いながらもわざといやらしい質問もします。そういう時に取り繕っている人はガタガタしだしますし、「君の考えは違わないかなあ?」と言うと、とたんに自信をなくして、少しも反論ができないのであればそもそも本物の自信ではないのではないかとも思います。わざと変なことを言ってみたら「おっしゃる通り」なんて言うと、こりゃ駄目だなって感じますよね。「そうはおっしゃいますが~~」くらいなことを言ってほしいと思います。これまでやってきたことに関してはストレートに聞いて、そうではないところで少しフェイントかけてやっています。とにかく騙されないことと我々がぶれないことを大切にしているということでしょうか。
・AO入試において予備校や塾での指導があることに対してはどう思われますか?
予備校や塾というのはできるならばない方がいいけれども、現状では「必要悪」なんだろうと思いますよ。二―ズがあるのも分かりますし、学校が応えきれていないもの事実で、初めはニッチな産業がここまで大きくなったというのもあるでしょうし。だから予備校がどうというわけではなく、受験生や親の側に予備校を使い倒すくらいの構えで賢く利用してほしいと思います。使い倒すくらいの気持ちであれば、意味のある情報を得たり、本当に必要なことを学ぶ場として良いとは思うのですが、「~~塾通っているから安心」というのでは意味がないのではないでしょうか。 予備校の先生には本格的なことをやってほしいと思います。現在の高校は受験に関係したことしか教えなくなっているとしたら本末転倒なのです。例えば日本史においては単なる暗記ではなく、出来事のつながりを見ていると大きな背景が見えてくる、といった授業をやってほしい。私も大学院のODの頃に予備校講師をやっていましたが、昔はそれができる講師は多かったんですよね。予備校に行って、初めてこの教科の面白さが分かった、目が開けたという生徒もたくさんいましたから。予備校は単なる学校の補完物ではなく、独自の文化を持ってほしい。つっぱったところを見せてほしい。そうすれば「必要悪」ではなく、存在価値を認められるのではないでしょうか?
・AO入試での合格者に求めることはどういったことでしょうか?
学生達には皆公平に接するべきなので、表だって言うわけにはいかないんでしょうが、AOという経路できたからには初志貫徹、最初に言っていた通り過ごしてほしいと思います。面接で言ったことが嘘でないように。学部をステップにしてどんどん外へ出ていって、例えばNPOで活動しても良いと思いますし、その人なりの納得できる場所で活躍してもほしいですよね。先に述べた社会人ほど心得てくれとは言いませんが、他の入学者の模範になってほしいと思います。 でも、自分の学部を見ていても思いますが、段々と小粒になってきたのかもしれません。それは予備校などの対策が増えてきて私たちが騙されているのかもしれませんが。少し残念です。あと、今どきの高校生はAO入試だけを狙っている人がいて、それはおかしいと思います。やりたいことがあってこの学部のAO入試を受けるけれども、一般入試も受けますといった方が普通だと思うのですが、どうも違うようです。
・AO入試は今後日本の中でどういったかたちを目指すべきでしょうか?
違う大学のことを含めて言えば、定員確保の手段にもなっていて、それはまずいですよね。だから一定の学力保障をするための試験を課すなりしなければいけないと思います。入りたいから入る、入れるから入るのではなく、やりたいことがあるから入るといった学生を採ることを維持しなければ大学のためにもよくありません。他大学の同僚のなかには、一般入試で3次まで五月雨式で募集した方がAOで入ってきた学生よりも良いと言う人もいますから。早く、楽して合格したいという理由でAOを受ける受験生もたくさんいて、それはAO入試の本来の趣旨どころの話ではありませんよね。文部科学省の方針で推薦入試での定員を50%までとしていますが、AOはその抜け道になっています。本当はもっと少なくてもいいのではないかと思います。 とは言うけれども、うちも私立大学ですし、経営というものがあるということはよく分かっています。他の大学にも当然事情はあるのでしょう(笑)。
・大学入試自体が日本の中で目指すすべき姿はどういったものでしょうか?
根本的な話をすると、世界の中で日本の大学入試のような馬鹿なことをやっている国は他にありません。大抵の国は高校時代に高校卒業のための統一試験をやり、その点数プラス面接、論文等で合否を決めていますよね。個別大学ごとに出題することなどに、これほどの膨大なエネルギーをかけているのはどうかと思います。ただ、一旦巨大なシステムとして出来上がってしまったものを一挙にやめたら混乱と矛盾が激しいと思うので、来年からやめるべきとは言いませんが、徐々に共通部分を増やしていく、連合型の統一試験を作ったり、手法としてもペーパーだけではなくしたり、また私立のように一定数以上受験生が来てしまう大学は記述式ではなくマーク式にせざるを得ないのが現状ですので、それを変えたりしていく必要はあるのではないでしょうか。センター試験をもっと上手に利用して、基礎学力はあれで計り、プラスアルファを大学ごとにしても、それなりに違ってくると思うのですけれど。基礎学力は確かに大切で、むしろ現在の高校生で怪しくなってきている部分なのですが、ただし、それだけで入学者選抜をするというのは、いかがなものか。1点でも多い方がいい、ということではなくて、最低基準を満たしていればその先は「学力」を求めなくてもいいのではないでしょうか。大検(現在高認)の程度でも構わないので、それを課したらその先はAO的にしてしまってもいいと思います。難しい知識が必要な大学はその部分だけ試験を課せばいいわけです。入試機会、出題数が増えてきて毎年ミスが増えてしまっていますし、小さな大学は問題を予備校に委託してしまっているのもまた現状です。予備校に委託するくらいなら公的機関がちゃんと作ってそれを利用する方が本来の姿ですよね。
・教育学部、教育学科という場所が目指していくことはどういったことでしょうか?
昔は教員養成という意味で価値がありましたが、その枠を広げる、教員ではない場所でも活躍できる人材を養うことが必要ではないでしょうか。教育学部卒業者ってなんだかんだ言って狭くて、「教員タイプ」といった学生ができがちなんですよね。だからもう少し社会の風を入れて、教職だけではなく一般社会に行っても大丈夫といった学生をつくっていかなければいけません。
・児美川さんが企業に求めることを教えてください。
採用の時期を遅らせてほしいです。大学生のうちの1年半以上をそれで失っているのは馬鹿らしいことで、だから日本の大学生は海外に比べて駄目になっています。海外の大学生は4年間みっちりやっていますから。就職活動をするのは、卒業した後です。それに比べて、日本では3年の後期になったらもう浮き足だってきます。ようやく大学生らしい学習ができるようになったかなという頃に、就職活動が始まって、ふ抜けたようになって帰ってくる。私が大学生の頃はもっと就職活動の時期は遅くて、10月1日に初めて内定がでていました。それだと4年前期まではしっかりと大学生活ができるわけですね。企業側も「最近の大学生の実力は…」なんて言うけれども、企業がそういったことをやってしまっているので2年半の教育になっている、それを言うんだったら4年分の教育期間を与えろよって感じです。私が先日まで行っていたオーストラリアは卒業と同時に失業手当のようなものがもらえて、それで生活しながら半年くらいかけながら就職活動しています。学校と労働市場との接続が、現状の日本では学校教育の中に入ってしまっているので、まずは出ていけという感じなのですが。 二つ目は、採用にあたって大学でやったこと、とりわけ専門学部での教育の結果をまるで評価していない節があるのでそれをやめてほしいです。どうしてサークルで責任者をやった方が~~学部で~~の専門をやっていたというよりも評価されるのか分かりません。どっちが入ってから企業内教育で伸びるのかということを企業は見ていて、サークルの責任者の方が良いと思っているのかもしれませんが、今では大学側も硬直化した専門だけを教えていれば良いというのではなく、今後の生涯学習社会の中で、本人が学習し、自らの力量を発展させていける力をつけているつもりなのですから、そういう部分を含んでトータルな意味での専門教育をちゃんと見てほしいと思います。オーストラリアの大学は法学部であれば、卒業した学生は法律関係や行政関係、せいぜい会計事務所くらいにしか行きません。サイエンスの学生は理系の技術系のところにしか行きませんし、採る方も、専門の人しかとらないといったスタンスで大学と就職先が密につながっています。日本では理系はまだしも、人文系や社会科学系の学部がひどいと思います。大学入試が高校までの教育を規定するように、企業の採用が大学を規定してしまいますので、そこはしっかり考えてほしいと思います。 さらに言えば、入ってから若者を使い捨てにせず、しっかりと育てほしいですね。卒業生の話を聞いていると企業現場が、人を育てる余裕をなくしている、1年目からノルマを課してやれるだけやれと言って、できた者は残り、できなかった者は居づらいので去る、それを当り前のようにしてたくさん採っていて、2年目3年目には3分の1に絞られました、なんてことになっているそうです。昔だと入った人は抱え込んで大人にしてやるよといった構えが企業にあったと思うのですが。もちろん、それはただ良い面だけではなくて、労働者が企業から自立できないといった悪い面もあったのですが、今は長い目で見て育てるという視点が欠けすぎていると思います。日本は資源があるわけでもない国です。人(人材)で勝負するならそれが必要ではないでしょうか。
・今後日本の大学の目指していくべきことはどういったことだと思われますか?
批判する人もありますが、ある程度は大学が「層化」していかざるを得ないと思います。世界的なレベルの知的な戦略基盤になる大学、国内的な高度職業人養成のような大学、地域に根差してそこのニーズに合わせた人材育成を行う大学といったかたちで、もう少しそれぞれの大学がそれぞれの大学のミッションを自覚して、自分たちに何ができるかを考えてやっていかないといけないのではないでしょうか。ただ、その時に、文部科学省が大学に対して出す補助金の格差付けをやってはいけない、コミュニティベースでやっていく大学にも研究型大学と同等の補助金を出さなければいけません。いったんコミュニティベースでやっていく大学に位置づけられてしまうと、予算も回ってこなくなるなんてことであれば、結局どこも研究型大学になろうとしますよね。それはすごく「非効率」なことです。予算などで差別をせず、それぞれの大学が自らの持ち場で頑張れるようにすることが大切です。私立大学と国立大学の補助金の差も本来なくなるべきだし、日本の高等教育費はOECD諸国に比べてまだまだ少ないので、全体として分厚くなっていくべきだとも思います。
・日本の高等学校についてどう思われますか?
1クラス40人は多すぎです。他国は20人くらいが普通で、かつ授業の中の個別学習時間が多い。生徒には個々の能力差はあるはずなので、当たり前なんですよね。40人一斉の授業だと我慢している子、下の子も、上の子もですが、がたくさんできてしまいます。その子にあったことをその子にあったように学んでいれば、放課後に特に塾や予備校に通って勉強しなくてもいいような気がします。もちろん、国語で文学作品の中身を味わう、集団で読み取りを共有し交流しあうといった場面など、内容によっては集団的な一斉授業の仕組みが適切なものもあります。けれど、どちらかと言えば、日本の場合には一斉学習の方に傾いている。もっと個に沿ったものが日本の教育システムにはあってもいいように思っています。
・これから大学へ向かう受験生へメッセージをお願いします。
大学は「入れば安心」というところではなく、入った上でその大学をどう活用するかが大切なので、入ればなんとかなるなんて間違っても思わないでください。入る前から、大学はこう活用しようという目的をはっきりもっていてほしいと思います。それがあれば別に第一志望の大学ではなくても良くて、同じような教育資源をもっている大学があるのであれば、そこへ行ってもいいはずです。第一志望の大学が重視されるのは入ることに重点がおかれているからではないでしょうか。仕事柄高校へ行くことが多いのですが、高校の教員までが、ある程度名前のある大学に行かせばなんとかなると思っているような気がしていて、それはまずいなあと感じているのです。
「今の高校の教員も、なんとかなると思っている。」この言葉が印象的でした。大学進学のために勉強しているわりには、何故大学へ行くのか、大学で何が行われているのか、そして自分は何がしたいのかが、あまりにも意識されていない。国立大学しか駄目であるとか、AO入試は禁止であるとか、そういった制限は一著前にかける。これらは私自信の実感であり、インタビューを行った数々の人が口にしていたことでもありました。高校の現場は変わらないといけない、と思いつつも、社会的な目が進学実績だけに向けられている以上、仕方のない現実であるのかもしれません。少しずつ解消されているとは言えど、社会の目はまだまだ学歴を意識しているのが現状です。確かに、良い大学で学ぶこと、良い大学で学ぶために努力することは大事なのですが、学歴、というもの自体が大切にされてしまうと、中身が意識されなくなってしまう。中身が意識されないと、教える側も、教わる側も、教育のクオリティを意識しない、楽な方向を目指していってしまいます。そうなると、さらに中身が意識されなくなってしまう。今回の企画は、企画を進めながら、色々な答えを見つけているものです。大きな図書館へ行くと、「大学教育論」「大学改革」という題名の分厚い本が並んでしますが、そういったものを普通手に取ることはありません。今回の企画は、大学教育を本来一番意識すべき受験生へ、大学教育が行われている現場の声を届ける、中身を再び意識してもらう場をつくることに意味があるのかな、と第3回目の今は感じています。