第5回:木村元 一橋大学社会学部教授インタビュー

 新しい大学選択第5回目は一橋大学社会学部で教育学を専攻されている木村教授のインタビューです。一橋大学、特に社会学部はゼミナール活動が盛んで、ほとんどの学生がゼミナールで活躍されています。「社会学部」と聞くと、多くの受験生は「社会現象を幅広く学んでいるが結局何をやっているかはよく分からない・・・でもまぁ入って見てもいいかな??」ぐらいの認識しかないのではないでしょうか?そんな社会学部とはどういったところか?また社会学部が目指しているものとはなんなのか?これらを感じていただけたらと思います。

木村元 一橋大学社会学部教授

   インタビュー日時2009/5/15

・社会学部のシステムに関して教えてください。

 社会学部は国立大学では唯一一橋大学にしかありません。その意味で存在しているだけでユニークであるといえます。社会学部とは耳で聞くと、「社会学」の学部というように聞こえるかもしれませんが、そうではありません。「社会」学部というイメージで考えてほしい。英語で訳すとSociologyではなく、Social Sciencesなのです。経済学や法律学を除いた諸学問がならびたっていると考えてもいいでしょう。但し、その全体像を知るために、まず導入の科目として社会科学の世界、社会学概論、社会科学入門ゼミナールが準備されています。そこで基礎を学び、緩やかな履修モデルガイダンスなどを利用して並列してある諸学問のなかから自分でカリキュラムを作り上げていきます。
 3、4年生からゼミに入るのですが、他の大学と違って、一橋ではゼミナールを重視しています。一つの授業というだけでなく実質上の大学での所属にもなります。学生もそのようなものとしてある程度覚悟してゼミナールに入ってきます。社会学部の場合は1学科でそのまま直接先生の専門とする学問に接することになります。
 ゼミナールでは勉強だけでなく、全学のソフトボール大会(今年は雨でできませんでしたが、私のゼミは女子が大活躍をして大男をそろえるチームを破りながら前年はベスト8までいきました。一橋ルールで強いだけでは勝てないのがおもしろいところです。)や合宿、他大学とのゼミ交流なども含めて信頼関係をつくりながら、勉強できる環境を整えています。ゼミ生は卒業してからもつながりがあります。

・木村先生のゼミナールについて教えてください。

 2年生の時には、社会研究入門ゼミというものがあり、まず、自分の頭で身近な経験を考えることからはじめ、報告の仕方、レジュメの作り方、批判的な本の読み方、議論の仕方など基本的なことを学びます。3年生からの私のゼミは、簡単に言うと教育とは何かを問いながら社会のなかで教育を考えるゼミです。今年は、「教育学をつかむ」という本の勉強を半年まず行います。教育を社会科学的に勉強するための基礎的な見方を学んだ上で、研究テーマを定めて共同で研究を進めます。昨年は教育改革を考えるとして戦後の社会と教育の関係を研究しました。その結果を踏まえて年度末に論集を出します。2年間のゼミで一番重要なのは卒論の作成です。4年生になると個人研究が始まり、これまでやった勉強の成果も活かしながら自分で問題を設定し資料を集め分析し論文にまとめていきます。これが卒論の作業です。4年ゼミは卒論が中心で3年生も疑問点を示して討論することでその過程に参加します。今年は12人が卒論を書くので例年より多いので回数は減りますが、2回の中間発表を含め年間5、6回の報告があります。

・個人研究の中で印象に残っているものを教えてください。

 1990年代の中盤の2期生の学生に、とても勉強家の女学生がいたのですが、彼女は外から見る限り、すばらしい家族で非の打ちどころがないお母さんに育てられました。「勉強しなさい」など、こうしなさい、ああしなさいとかは一切いわれませんでしたし、愛情を注がれて自由に育てられたといいます。事実、彼女自身も母を尊敬して育ったと言っていました。しかし、にもかかわらず何か息苦しさがあった、彼女はその息苦しさがなにかを探る研究をしました。NHKのある番組で同じような経験をした子どもについて放映されたことをしり、その方を捜し当てて、その家庭でインタビューを重ねて卒論を作りました。母親の娘への先取りの対応がそこには隠されていたのですが、その一端を示しました。結局その研究は母親への批判にもなっていたので悩んで書き上げました。彼女は書いてから1ヵ月寝込んで、母さんが看病にやってこられました。彼女は、今は自分の娘さんを育てていますが卒論が一面的であったことを感じています。自分が子どもを育てることでその意味を深めているともいえます。
  毎年いろいろな国から留学生がゼミはいってきますがが、4、5年前には、シンガポール、韓国からの留学生がメンバーにいて、このところ話題となっているPISAという「国際学力調査」の上位国がそろったことで、その経験を踏まえながら比較をしたことがあります。そのとき、韓国の留学生が、朝早くお弁当二つもって学校に行き(昼食だけでなく夕食も)、夜遅く帰ってくるという生活を繰り広げてきたという話を聞き驚いた日本の学生の顔が印象的でした。早期に進路が決まるシンガポールのあり方や、両国の兵役と学校との関係にも考えさせられました。
 卒論やテーマ研究で、教育をいいものに変えたい、改革したいと張り切っていろいろ報告をしがちなのですが、学生が陥りがちなのは、物事の良いか悪いかを考えがちであることです。現在は教育改革ブームですが、改革、改革という声が耳に入り改革案を示そうとするのですが、大切なことはまず相手をつかむことです。そうしたときによくあげるのが開高健という作家が書いたエッセイです。「人は常に悪霊に殺されていた、しかしその悪霊がライオンだと分かった時にその悪霊を退治することができた」といったものです。それを読んだ時、私は、まだ生意気な少年だったのですが「なるほど!」と思いました。つまり相手を悪霊としてみていたのでは解決の手段にならない、相手をライオンだと把握した時、ライオンだと名付けられた時、相手をつかんだ時に克服できる。ちゃんと相手を知るということこそが深い改革を準備するということを知ることが重要といっていますし、それがゼミの共通の約束になっています。

・リソースや資金があまりない学部生がやるべき研究はどういったものだと思われますか?

 やれる範囲に対象の方を持ってくる工夫が大切と思います。やりたくともたとえば資料や情報がなければやれません。やりたいことをやれるように対象を措定して、その範囲で何がやれたかを確認することが次の研究につながると思うのです。大学でやったことがそれで終わるのではなく、本当にやりたいことであればそれが生涯の研究対象になったりする。職業にぴったりフィットするかどうかはわかりませんが、ならなくともいつも気にしていると人生のなかで追求することもできる。大学でやることはいわばその基礎であると考えるのがいいと思うのですが。どうでしょうか。

・木村先生がゼミナール運営において大切にされていることを教えてください。

 共同して講読したり、議論したりすることが大切と思います。勉強や研究は個人にだけ閉じこめられるものではないと思います。受験勉強は個人でやるものですが、大学での講読は他者の読みを聞くなかで自分の読みを確認する。そこでの発見が大切と思います。ゼミの報告は、事実や資料の紹介、講読などですが、いずれにしても、示されていることをきちんと示す。その上でコメントを書く。前者はどのようなやり方でもいいので人にわかりやすいように示すように工夫をする。パワーポイントを使って図示して報告するもよし、漫画を用いて報告するもよし。自分の理解を自分で示しやすい表現で行う。他方、コメントは必ず文章で示す。素材を評価するという作業が入るわけですからそれはどのような根拠でどのように評価したのかを論理的に書くことが求められます。実は前者の内容の紹介もどこにポイントを置いて報告するかということが現れるわけであり、それは報告者がそれをどのようにとらえているかを示しているわけでそこからもその人の理解がわかるのです。このように自分で勉強したことを表現するということが重要なポイントです。それを共同してやるわけでどのように意見や判断の違いを調整してまとめられるかということが加わってくる。ゼミのいいところは、何でも言える関係をつくることが出来ることです。議論は激しくなることもありますが、信頼関係があるから遠慮なく言い合える、場合によっては(講読の)読みが甘いなどきつくも言い合える。どこかで恥ずかしがらずに自分の理解を出し合って議論する経験は大切と思います。社会に出る練習ですから、大学のゼミなどでは失敗することがむしろ大切といえます。そのように失敗しながら自分の特徴をつかんだり鍛えたりして自分を作っていってもらいたいと思います。ゼミへの向かい方次第で奥深い経験ができると思います。

・木村先生が研究者になられたきっかけを教えてください。

 企業社会が成立するなかで学生時代をおくりましたが、お金儲けであくせくして一生過ごしたいと思えなかった。比較的肯定的な経験が多かったので学校はきらいではなく教師になろうと思っていました。企業社会の世界から一番遠く、比較的自由で平等職で、正義が重んじられる場と思っていました。でも、それはかなり一面的な見方で、単純ではないということが僕なりに分かってきた。それが研究者を目指したきっかけだったと思います。研究者を目指したというより、もう少し勉強がしたかったというのが研究者につながったという感じです。

・私の通っている慶應義塾大学SFCは教養課程がないのですが、大学における教養課程の意義とはどういったものでしょうか?

 教養課程の意味は、大学でそれぞれ専門を勉強して専門的な知識を身につけるなかで、自分の専門しかわからない人物をつくらないというのが一番の重要なポイントです。特定の知識ではなく幅広い知識を身につけながら、見識を深めバランスをもった人物を養成するというのが理念だと思います。でもそれが形骸化してしまったというのが問題で、1990年代にはいると教養部を大学におく必要がなくなった。今その見直しがいわれていますが、どんどん専門を早く学ぶという傾向は一橋でもあります。私たちの社会学部では、教養を大切にして、幅広い見識をもてるようにLate Specializationを掲げて、早期の専門化を単純に進めることはしていません。ただし、これに関してはSFCなりにいろいろ考えられていると思いますので調べてみてはどうでしょうか。知恵が存在しているはずです。

・教育にとって理想的な大学入試制度はどういったものでしょうか?

 入試制度は、もともと大学で勉強や研究がなしえるかどうかを見分ける装置なんです。日本の近代大学の先駆けとしてつくられた東京大学は、できた頃は競争試験ではなく、大学の中心をになったお雇い外国人による英語やドイツ語での講義が基本だったので英語やドイツ語ができなければ意味がなかった。今は、593点の人が合格で、592点の人が不合格といった形になっている。そのような試験とは違う、大学の教育に対応した必要な能力を見極めて、それに対応した入試(というよりアドミッションの)制度がつくられることが大切でしょう。

・これから大学進学を目指す受験生へメッセージをお願いします。

 広い世界が見えるようになることが大学で学ぶことの大切な意味と思います。簡単に言うと人間や社会の複雑さ、簡単にこうすればこうなると社会を見るべきではないということを学びます。そのうえで、途方もなく複雑な、たくさん問題がある中で存在する社会に対して、当たり前という考え方ではなく、よく存在しているなということを実感していることが大切ですね。そんなことやって何の役に立つんだと思われるかもしれませんが、社会に出て数限りなく新しい問題と遭遇し、それを解決しながら生きていかねばならない。社会を生きるということはその積み重ねでもあります。そこでは総合力が問われます。目先のことだけを考えているととてもやってはいけない。中年クライシスというようなことがいわれていました。それは中年のエリートが自らいのちを絶つ状況を示していましたが、その場合でも社会への広い視点があれば違う選択がとれていたということがあります。自分で社会や人間のことをじっくり考えて社会に出ると言うことが経済的な生活だけでなく人生を豊にすると思います。そのためにはそこで学びたいことを積極的に見つけ出して、きちんと勉強するということが大切と思います。場はつくってもそれを利用しなければ意味がありません。ゼミに入る前と後では深さが違うことが実感できるような経験をしてもらいたいと思います。

 もともとは一部の限られた人だけが行っていた大学。しかしながら、「大卒」の方が良い職に就けることと、高度経済成長によって裕福となったことがあいまって、多くの人が大学へ通うようになりました。情報技術も発達し、知識だけを学ぼうと思えば自分一人で学ぶこともできるこの世の中で、そもそも大学で何をわざわざ学ぶ必要があるのか?木村先生のゼミの運営理念の中でそれが述べられていたと思います。
 最近では学生の間で「インターン」が流行り、多くの大学生が、在学中から企業体験を行っています。しかしながら、インターンの内容にもよりますが、在学中から企業体験をしたところで、入社してから学ぶのとあまり変わらない、それよりも「生産性から切り離された中で何ができるのか?」これを考えた方が良いという意見が出てきています。どんな価値観にもとらわれない中、何か新しいテーマに関して自分で追求していく、それも、やっていることがリアルにある社会に対して何かしらの刺激を与えられていること。その経験が社会に出てからも役に立つものと考えます。
 学部のうちに行う研究は「個人が好きなテーマ」であることが一般的です。今回例として挙げられていたものは個人的な体験に根ざした意味深いものでした。どうせなら、学者がやるようなものではなく、何かしら自分の将来につながるような研究テーマを選んでみたらどうでしょうか?ただし、研究だけが、人が成長できる媒体であるとは思いません。研究だけではなく、デザインやビジネスを行っている人もいて、それらを遂行していくこともまた、あらゆるものの見方が身に付きます。自分を社会との接点の中で成長させられる何かが追求できるところを志望し、目指していってほしいと思います。