第6回:玉井清 慶應義塾大学法学部教授インタビュー

 第6回目は慶應義塾大学法学部玉井教授へのインタビューです。私の所属する総合政策学部があるSFCと法学部のある三田は同じ大学であってもカリキュラムが異なり、教授によっても大学への理念が異なってきます。

 SFC的なカリキュラムが良いのか?三田の伝統的なカリキュラムが良いのか?今回はその内容に突っ込んでインタビューしました。

玉井清 慶應義塾大学法学部教授インタビュー
玉井清研究会Webサイト

・玉井先生が研究会を運営されている中で、大切にされていることを教えてください。

 ゼミは、大学のカリキュラムの中で、学生が最も能動的に研究を行う場と位置づけています。それだけに私自身、教育の中核に位置づけ、学生が知的感動を体験しながら成長できる場にしたいと考えています。法学部政治学科には、ゼミ以外に、少人数の専門の授業として、半年で完結する「演習」や「特殊研究」という講座が設置されていますが、半年で完結するため、多くの授業は、課題となった本を読み、討論する程度にとどまっています。勿論、ゼミでも専門分野の研究書や研究論文の輪読は行いますが、重要なことは、そこから先、すなわち自分で課題を見つけ出し、関連した資料を集めて分析をし、その解答を導き出し、他に解説し、説得する作業であり、それを、じっくり時間をかけ、腰を据えて行う場がゼミと考えています。同じ教師の下で、同じ専門領域に関心のあるメンバーが、切磋琢磨しながら2年間過ごす。大学のキャンパスを離れ、ゼミ合宿もする。「同じ釜の飯を食う」という言葉がありますが、案外、そうした経験は大事なのですよね。その過程で、学生は飛躍的な成長を遂げる、ゼミの神髄は、そこにあると考えています。主宰するゼミが、そういう場になること、あるいはそういう場に近づくことを願い運営しています。
私のゼミでは2つのプロジェクトが走っていて、1つは、3年生の春から始まり秋の三田祭(大学祭)までに完成させる共同プロジェクトです。近代日本政治史の中のテーマの中からトピックスを一つ選び、それに対する新聞雑誌の報道姿勢を共同で調べ分析する作業です。トピックスの選び方は学生に任せますが、そこでは、選ばれるトピックスが考察対象として的確であるか、その妥当性、有効性が種々の視点から吟味されます。テーマの有効性(調べる意義はあるのか)、実現性(秋の大学祭までに成果を出すことが可能か)が、ゼミ生の間で熱く討論されます。その成果は、毎年「近代日本政治資料」として発刊し内外の有力大学の図書館に所蔵され、今年は第15号が発刊される予定です。
この研究結果は、すぐ社会に役に立つわけではありませんが、その企画の立案から、調査分析、結果の提示と他を説得するための的確な解説を行う、これらの能力はどこの世界でも必要とされるのではないかと思います。ゼミにおいては、その研究が社会にいかなる貢献を果たすことできるかという問題意識を、敢えて強調しない、あるいは無視するようにしています。それは歴史研究の性(さが)なのかもしれませんし、そもそも即効性のある研究分野ではありませんので。しかし、その役に立ちそうにない学問が、役に立つ。逆説的な表現ですが、その意味することは、わかる人にはわかると思います。高校生でこれがわかったらたいしたものですが。
大学祭後、3年秋以降に始まるプロジェクト、それは個人の卒業論文です。私は、これら2つのプロジェクトをやり遂げることを通じて、社会に出て役に立つ人材を養成できると考えています。もちろん学術的にも高いものをやります。これを経験する学生と経験しない学生では社会に出た時の力に圧倒的な差があると思います。

・慶應義塾大学SFCではゼミが半年で変えられるのですが、どちらのシステムが良いと思われますか? 

 どちらがいいか、何とも言えません。当然、メリット、デメリット、両方あります。ゼミを運営していて、学生の性格を知悉し、一つのテーマを探求し、成果を残し、その過程でゼミの文化を作り上げていく、そのためには、せめて1年は必要、半年では難しいのではと思います。他方、三田のゼミは、原則2年間で、同じ教師、同じメンバーで研究を続けるわけです。先生との相性があえば良いのですが、相性が合わなければ可哀そうです、お互いに悲劇です。さらに、他のメンバーとともに作り上げようとするゼミのカルチャーとの相性も重要です。それが合わないと気づいても変更の機会は与えられていないといっていいでしょう。ただ企業に入れば嫌な仲間ともやっていかなければいけません。そのための訓練の場と考えてもいいでしょうが、実際にはなかなかそう割り切れないものがあるかと思いますよ。また、それで給料をもらっているわけではないのでね。

・SFCの場合1年生からゼミに入ることができますが、このようなシステムと、法学部のように3年から入るのとはどちらが良いと思われますか?

 どちらでも良いと思います。1、2年の時は、ウィンドウショッピングのように先生と近い場所で研究に触れるのは非常に良いのではないかなと思います。ただそれがいつまでも放浪の旅みたいになってしまうと、大学卒業した時に「俺は一体何を勉強したんだろう?」となってしまう危険があり、これはあまり好ましいこととはいえないと思います。したがって、1、2年の時は、半期で完結するゼミあるいは演習を色々体験し、自分の知的関心の方向を確認しながら、先生の研究分野や性格などをじっくり見極め、3、4年では、2年通年のゼミを実践する。あくまで私の意見ですが、それが理想なのではないかと思います。法学部でも、そうしたカリキュラムが組めればいいのですが、日吉と三田のキャンパスが離れているため、そうしたことはなかなかできにくい状況にあります。その点、SFCの場合、有利かもしれませんね。

・大学における教養課程は本来どういった姿をすれば良いと思われますか?

 一番世の中の役に立ちそうにないことを勉強する、それが学問の本質、基盤であること、その醍醐味を学生に実感させる、それが重要かと思います。先ほども述べましたが、すぐに役には立たないけど、後から役に立つ、あるいは物を考える基盤の養成と言ってもいいかもしれません。ただしそれをいつの段階でやるのか、決まっていないと私は思います。1、2年の時に教養をやって、後から専門という形が行われがちですが、それにこだわる必要は全くないのではと思います。身近な問題からあるいは専門から取り組むが、その課題に取り組むためには教養が必要なことに気づきその時点で学ぶ、順番はそれでもいいと思います。ただ、それをやらない、あるいはそれが基盤にない学問研究は、奥行きがなく、寂しいものになるのではないかと思います。歴史、哲学等の研究は、その「教養」の最たるものかと思います。歴史を研究すると、奥行きのある議論が出来るようになる、哲学を学ぶと、物事の本質を考えるようになり、その結果、課題を切る時の切れ味鋭いナイフを手に入れることができるのではないかと思います。それは私の考え方で、古臭いものかもしれませんが。

・現在の問題にはコントリビュートしない三田と、現在の問題につなげていこうとするSFC、2つのスタンスに関してどう思われますか? 

 あくまで、SFCと比較すると、そうした傾向があるだけで、三田で行われている全ての学問が現在の問題に貢献する意識がないわけではないと思います。
この問題は、教養課程の話と似ていて、どちらの方法も正解だと思います。要は、順番の問題、自分が好きなやり方を選べばいいと思います。私がゼミで、敢えて社会にいかなる貢献をするかという問題を問わないのは、SFCの手法を否定しているわけでは必ずしもありません。私のゼミの順番はSFCとは異なるというだけで、とりわけ歴史研究の場合は、その方が的確だと考えているからです。何の問題でも深めていけば今日の問題につながっていきます。しかし、今日の問題、社会への貢献ばかりにとらわれていては、結果として深い研究ができないことが懸念されます。何でもいいからある一つの問題を深めていくと、結果として今日の問題につながっていくということを、いつの日にか、必ずしも大学在学中でなくてもいい、社会に出てから、さらにいえば、退職してからでもいい、それを実感できれば良い、「あの時こういうことやったのが実は今ここでこう役に立っている」こういう気付き方を死ぬまでにしてくれれば、私のゼミでは成功と考えています。
したがって、私のゼミの学生が就職活動で、「やっていた研究がどんな役に立つの?」と聞かれたら絶句するでしょうね。「研究は分かったけれども、それがうちの会社にどう役に立つの?社会にどう貢献できるの?」多分そういったことを聞かれたこともあるのではないでしょうか。人事が、その点をどのように評価するかは非常に興味のあるところです。果たして、それを見抜く、それこそ教養の意義をどれだけ知っているか。野球でいえば、その選手の潜在能力を見抜く力があるか、即戦力の選手ばかりにスカウトの目がいっていなければいいのですが。

・研究会の運営の仕方は昔と今で変えられた部分はありますか?

 ありません。ずっとこうです。

・研究会に対して持たれている現在の理念は、どこでかたち作られたものでしたか?

 恐らく恩師の影響だと思います。それを意識したわけではありませんが。恐らく、政治学の研究でも歴史的アプローチを取る人は、そうした傾向が強いかもしれませんね。結局、好きで始めたことなので、理念などという高尚なものは始めからありませんでした。学生には、とにかく学問することの楽しさを実感させてあげたいと願っているだけです。今まで述べたことは、どちらかといえば、いずれも結果論、後付のもっともらしい理屈に過ぎません。

・玉井先生が研究者になられたきっかけを教えてください。

 私のゼミの指導教授の影響です。そもそも、私は、大学に入る前も、入ってからも学者になろうとはこれっぽっちも考えていませんでした。しかも、自分が専攻することになる歴史も、高校までは必ずしも好きな科目ではありませんでした。何で過去のことなんて勉強しなければいけないのか、意味がないのではないか、現在起こっていることを研究しなければ意味がないのではないか、大学に入る前も、入ってからも、恩師の授業に出会うまでは、そのように思っていました。しかし、その先生の講義は、非常に面白く、歴史研究の、というより人間の生き様を知る醍醐味を教えてもらったようで、興味をもち始めたのがきっかけです。単純に、それが面白かった、楽しかっただけです。

・現在の日本の高等教育に関してどう思われますか?

 現在の高等教育の現状を知っているわけではないので、何とも言えませんが、私の経験に照らしていえば、学校で使用されている歴史の教科書だけは駄目だと思います。あんな教科書を読んで歴史が面白くなるわけがないと思います。無味乾燥で事実の羅列だけ。高校の時に歴史が好きになる生徒はおそらく教える先生が良いのだろうと思います。教科書は基本的にしながらも、そこにある人間のロマンやドラマ、「このように歴史は動いたのか」ということを語ってくれる先生がいたのではないでしょうか。それは、予備校の先生であるかもしれませんね。あるいは、教科書を離れた歴史小説かもしれません。これは歴史教育だけに限らないと思いますが、知的好奇心の喚起、それができるか否かが問われていると思います。これは、高等教育に限らず、大学教育にも求められることでもあります。勿論、大学に合格することは大事です。是非それを目指し研鑽を積んで欲しいと思いますが、その過程で、何かしらの分野で(全ての分野でなくてもいいです)知的好奇心の喚起(こだわり、立ち止まってみたくなる瞬間)を経験して欲しいと思います。それがないと、折角大学に入学しても目的を見失った燃え尽き症候群の一人になってしまうかもしれません。勿論、大学入学後に、それを見つけてもいいのですが。見つけようとする気力を全く失ってしまっては、そもそも大学に入学する意義はなくなってしまいます。

・玉井先生はどういった大学生でしたか?

 普通の大学生です。日本史オタクだったわけでもありませんし、平凡な学生でした。

・玉井先生が学生の時と今で慶應生の違いはありますか?

 今の学生の方が真面目です。SFCは知りませんが、とりわけ三田の学生、政治学科の学生は真面目です。もちろん例外はある、遊びほうけている学生はいると思いますが、一般的な印象として意識と能力の高い学生が集まっていると思います。その傾向は、近年顕著になっていると思います。したがって、教えがいはあります。

・どういった学生が理想であると思いますか?

 結局、知的感動ができる人です。そういう感性を持っていること、あるいはそういう感動を欲している学生です。そういう学生は確実に伸びますし教えがいがあります。大学は、極論をいえば、何もやらなくてもいい、放蕩生活をおくれる場です。しかし、それに満足しない人です。知的な冒険をして感動して「おぉ!」と思う気持ち、そういった感性がある人です。もしかすると、高校時代、そうした感性を持ち既に体験し自らその道を歩んでいる人がいるかもしれませんね。しかし、そうした人は、往々にして普通の受験では失敗するかもしれません。大学入試では、広い知識を問われますので。このような学生は、普通の入試ではこぼれ落ちてしまうかもしれませんが、大学では伸びる資質を持っていると思います。AO入試で大学が求める学生は、そういう学生です。逆に、そうした資質を持っていない人が、AO入試の受験することはナンセンスであり、そのためのノウハウを獲得するための予備校にかようことは無意味で、お金の浪費でしかありません。

・日本の大学入試体制はどういったかたちが理想であると思われますか?

 そうした問題に真剣に向き合ったことがないので何ともいえません。ただ、AO入試といったものがあってもいいし、ペーパー試験が無駄かというとそうではないと思います。ものごとを考える上で高度な知識を獲得していることは大切です。私のように大学に入学して知的感動を体験する者もいます。そうした点で、仮に私の時代にAO入試があったとしても、私には受験資格はなかったと思いますし、たとえ受けたとしても不合格だったでしょう。法学部でも色々な入試形態を採用していますが、一概にどの入試が正しいかは言えません。種々の入試形態を取る方が、色々なタイプの学生が入学して、大学としては理想ではないかと思います。ただ、そのための教員の負担が過大となり、ジレンマに陥るわけですがね。

・玉井先生が企業に求めることはどういったことは何ですか?

 企業の採用活動が年々早くなっているのは困りものだと思います。少なくとも4年の夏休み明けくらいにやってもらえればありがたいなと思います。ゼミのプロジェクトにも大きな障害になっていて、3年の秋の三田祭が終わったあたりから、学生は就職活動へ走りだすから、専門の研究活動を本格的にする時に、多くのエネルギーを就職活動にもっていかれています。それは非常に不幸なことかと思います。今は、3年生が始まった時、夏休みに入る前から就職活動の一環としてインターンシップなどを始めている学生もいます。私のゼミは、そうした流れにやせ我慢しながらも抗している方だと思うけれども、これに流されてしまうと3年生以降の学業は、空洞化してしまうでしょうね。それでは、一体、何のために厳しい競争に勝ち抜いて大学に入学したのか、その意味はなくなってしまいますね。大学は、就職活動を有利に行うためだけもの、それではあまりにも空しすぎるのではないかと思います。私が学生の頃は夏休みまでに卒論を仕上げて、その上で就職活動に出る、4年の10月頃から本格的な就職活動が開始されました。その位の時期が、大学企業どちらにとっても一番良いのではと思うのですが。そうすれば、早く内定を出しすぎて、その取り消しで大騒ぎすることもないかと思います。企業の方も1年後どうなるか分からない人を採るのは大変だろうし。しかし、いずれまた大学と企業がアクションを起こし、両者の間でなんらかの協定が結ばれると思いますよ。その繰り返しです。歴史を勉強していると、そうした見通しが予測できるようになります。

・法学部は日本の中でどういった姿をしていけば良いと思いますか?

 パンフレットに書かれるような文言に従えば、「社会に有益な人材を育てる」ですが、そんなことは当たり前でしょう。私は、あまり学部は関係ないと思っています。勿論、専門知識を深めることは重要ですが、大学ですぐ役に立つことを学ぶことは期待しない方がいいと思いますよ。「すぐ役に立つことは、すぐ役に立たなくなる」、これはいつも学生に言っていることです。法学部で学べば法律に詳しくなるので、社会に出てすぐに役に立つ、商学部だとマーケティングを勉強しておけば、すぐ販売戦略を考える際に役に立つ。確かに、そうした側面を否定するわけではないですが、それだけを目的にする考え方はどうなのかと思います。私のゼミの学生でも、会社入って企業法務にまわされる者もいるわけです。同じ法学部でも、政治学科の学生は、法律学科の学生より、10歩も20歩も遅れているかもしれませんね。しかしながら4、5年経てば、どうなるでしょうか?いくら法律を学んでも、大事なことは、どの法律をどのように活かしていくか、分かっていないと駄目です。あるいは、そもそもこの問題を法律の力を借りずに解決できないか?全て答えのない応用編といってもいいかもしれません。その応用問題に対応できる能力、それが大学で学ぶ意義の一つであるかと思います。そのために、自分が知的好奇心を持てる分野を、問題を探し続ける。それが大学という場です。

・本来、どういった進路選択をして高校生は法学部を目指すべきだと思われますか?

 その問いは一番大事なことで、法律を学べば弁護士、といった風に普通は考えると思います。でも実際に弁護士になる人は限られているわけです。高校生に伝えたいことは、確かに、各学部専門はありますので、その学問の性格はきちんと理解していくことは必要でしょう。例えば、慶應の法学部は、法律と政治の学科に分かれていますが、学問上の性格は相当異なるといった方がいいでしょう。しかし、他方において大学は非常に開かれた学問をしているということも知って欲しいと思います。例えば、私のゼミでは近代日本政治史を専攻していますが、相撲、宝塚、パン食、英語雑誌まで、色々なことが卒論のテーマとして成り立っていきます。興味のある人は、私のゼミのホームページをのぞいていただければと思います。「慶應」「玉井研究会」のキーワードで検索すればヒットするはずです。今は、色々な先生が、あるいは色々なゼミがホームページを立ち上げていると思います。自分の興味のある大学、勉強したい分野があれば、そうしたホームページを閲覧することをお勧めします。そうすると、大学のパンフレットに書かれた以外の非常に生きた情報を得ることができると思いますよ。どのような研究をしているのか。そうすると歴史を学びたい人は、文学部の史学科だけがその選択肢でないことがわかるはずです。歴史だったら文学部、法律だったら法学部、マスコミやジャーナリスト、政治が好きだったら政治学部、そうじゃありません。法学部に行ってもジャーナリストになれます。例えばジャーナリズム学科というものがあっても、そこを出た学生が有能なジャーナリストになれるとは限らないと思います。一つの分かり易い選択の仕方なので、そうした選び方自体を否定するわけではありませんが、違った見方もあるということは知ってほしいと思います。例えば、私の所属する法学部政治学科の場合、政治を主軸に研究を進めますが、教員一覧を見ればわかる通り、そのアプローチの仕方は、法律、経済、文化、社会、歴史とさまざまです。私の経験から言って、何を勉強したいのかなんて分からないことは多い。高校の段階で分かっている人は1割もいないだろうし、大学入ってからも色々と変わります。勿論、何をどのように勉強していたいかが分かっている学生は、どの先生につくのが一番いいのかと考え大学学部を選ぶ、それは理想の選び方だと思います。それは、非常に立派な選び方ですね。私自身、そんな立派な受験生ではなかったので、敢えて言いますが、本当の意味で、そうした選び方ができる人は、1%もいないと思います。

・日本の大学体制はどういったかたちをしていくことが理想だと思われますか?

 少なくとも慶應でやっているゼミのようなものを中核とする体制が非常に有効だろうなと思います。アメリカの学者で日本の大学教育に対し辛口の先生と話している時、「日本の大学からアメリカが学ぶことは何もない。ただし、ゼミだけは非常にユニークで、これは真似てもいいな。」という発言が出ました。アメリカには、そうしたゼミは、ないようです。韓国にもないようで、韓国からの留学生は「すごいですね、とっても面白いですね。」と言われます。日本の各大学では、その形態は種々異なるでしょうが、大なり小なりゼミは、あるかと思います。これをどう活性化していくか、それをしっかり考え実践していけば、日本の大学も捨てたものじゃないと思います。少なくとも、慶應の法学部では、大学院の修士課程くらいのレベルの研究まで到達することが可能と思います。

 以上です。慶應義塾大学SFCが1年生からゼミナールに所属し、半期間ごとに変えることもできるのに対し、法学部は3年生からずっと同じゼミナールという制度になっています。そのことについて初めにたずねると「1、2年の時は、半期で完結するゼミあるいは演習を色々体験し、自分の知的関心の方向を確認しながら、先生の研究分野や性格などをじっくり見極め、3、4年では、2年通年のゼミを実践する。あくまで私の意見ですが、それが理想なのではないかと思います。」という答えをいただき、必ずしも3年からにこだわっているわけではないのだなということを感じました。
また、SFCにはない、教養課程の意義に関しても「1、2年の時に教養をやって、後から専門という形が行われがちですが、それにこだわる必要は全くないのではと思います。身近な問題からあるいは専門から取り組むが、その課題に取り組むためには教養が必要なことに気づきその時点で学ぶ、順番はそれでもいいと思います。」といった答えをいただき、非常に驚きました。今までも多くの教授が現在の教養課程のあり方に少なからず疑問を投げかけていたことから、何か共通の問題点を抱えているのかもしれません。

 この企画の趣旨でもある、本来どういった高校生が法学部へ行くべきか?この質問にも玉井先生は綺麗に答えて下さいました。法学を学ぶだけが法学部ではないということは、進路選択の際に非常に参考になるのではないでしょうか?また、たとえ法学を学んだとしても、それは知識として重要なのではない、そのことも「パンフレットに書かれるような文言に従えば、『社会に有益な人材を育てる』ですが、そんなことは当たり前でしょう。私は、あまり学部は関係ないと思っています。勿論、専門知識を深めることは重要ですが、大学ですぐ役に立つことを学ぶことは期待しない方がいいと思いますよ。」と表現されていました。

 何故法学部へ行くのか?法律関係の仕事につきたいということ以外に、考える要素は多いなと感じていただけたのではないでしょうか??