第11回:AO入試不合格者の満足感

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 本文◇主婦 46歳(横浜市)

 「僕、AO入試を受けて本当に良かったよ」――。高校3年生の昨年、志望大学のAO入試に挑戦し、残念ながら不合格になった息子の言葉だ。

 これは、2008年4月に読売新聞に寄せられた、AO入試受験生の母親の投書です(2008年4月30日読売新聞朝刊10ページ)。文面から分かるように、母親の息子さんは、AO入試を受験したものの、残念ながら入学を拒否されてしまいました。が、「AO入試を受けて本当に良かった」息子さんはこういった言葉を残しています。私は自身のサイトの中で、合格者のみならず不合格者へのインタビューも行っていましたが、不合格者は、AO入試の選抜の仕方にはやや不満が残っているものの受験したことに対して後悔しているどころか、満足している傾向が一部でみられました。私は、現役時代は一般入試で国立大学を目指していたのですが、本番で失敗し、努力空しく不合格を叩きつけられてしまいました。不合格が決まってから、夢ではうなされ、人の顔は見ることができず、ただ一人で映画館へ行くも、社会からすっと遠ざけられた思いが起こり、涙が出てくる、そんな日々を過ごしていました。現実を否定したく、どこか逃げ場がないものかと同じように不合格になった人々がコメントを投稿する掲示板を眺めもする、そこには「満足」という言葉など何一つありませんでした。

 浪人時代、たまたま慶應SFCのAO入試を見つけ受験、AOに関して大学の募集要項程度しか情報を得ていなかった私は、手探りで受験を進めました。出願前に受験生に良く起こる虚無感に襲われながらも、何とか、1次書類を提出。ほっとしたその自分の心の中には、虚無感に隠れていた満足感が残っていました。さらに1次を突破し、2次面接に挑み、生まれて初めて教授たちと会話し、受験終了。合格発表は2日後でしたが、なんだかすがすがしい気持ちがそこにはありました。

 一体AO入試受験の時起こるこの気持ちはなんなのであろうか?今回はこれを考えてみたいと思います。

大学進学率の増加

 大学進学率が上昇し始めたのは1950年代でした。それまで大学は主に論文入試をとっていましたが、多くの受験生を公平に、すばやく選抜するために学力によって1点を競わせる入試を開始し、今でいう「一般入試」が開始されました。教育社会学的視点では、大学は一部の特権的な人々のみが行く「エリート」段階から権利として大衆が向かう「マス」段階、そしてほぼ全ての人が義務的に行く「ユニバーサル」段階へと進むと言われていますが、ちょうど、エリートからマスへと変化している時期にあたります。

 大学進学率が上昇した背景には段々と金銭的に余裕のある家庭が増えたことがありますが、余裕が出たところで何故大学に行かせようとしたか?のかは、大学に行った方が将来多くのお金がもらえるためでした。官庁や企業含め、大卒でなければ就職試験も受けることができない状況は今でも同じであるといえます。ただ、大学に進学し、それまで似たような境遇の人が集まる学校の生活からバイト等「外」での活動を始め、高卒の人と関係をもった人はなんとなく感じているかもしれませんが、「大卒」だからって必ずしも優秀なわけではありません。確かに、真面目に勉強している人は大学に進学するのが今の日本の状況かもしれませんが、家庭的な事情により大学に進学できなかった、真面目に勉強さえもできなかったという人も中にはいます。 

 大学は官僚や研究者など、良く言えば多くの人に影響を与えられる、悪く言えば人を支配する立場にある一部のエリートを養成する場所でした。そういった大学がマス段階に入り、多くの学生が入学するようにはなりましたが、そもそも「一部」であるはずのエリートが「大衆化」するわけには行かず、エリートのための教育は大衆の役に立つものであるとは到底言えませんでした。そのため、大学は卒業すること自体が目的となり、さらに言えば、一つでも良い大学を目指すことが大切であるという価値観が特に高校や受験の世界では常識となっていきました。おそらくそれは現在でもあまり変わらないのではないでしょうか?そういった考え方は駄目だよ・・・と正論を唱えても、合理的に考えて、社会が、大学がそういった仕組みになっている以上仕方のないことだと思います。もしこれを変えるとするならば、受験生の考えを変えるのではなく、そういった社会の仕組みを変えていかなければ、ただの「綺麗ごと」ですまされてしまいます。

推薦入試

 AO入試よりもさらに前に推薦入試という制度が1960年代頃から盛んになり始めました。大学がマス化したことにより、選抜競争が激しくなり、「高校生が所謂入試地獄に陥っている、もっと健やかな高校生活を送らなければならない」という政府の考え方と、「学力試験では、ディスカッション等の能力がある生徒ではなく1点を効率よく獲得するような生徒しか入学させることができない」という大学側の考え方が合わさり、主に高校の調査書を利用して選抜させるという意図で推薦入試は導入されました。おそらくここを読むほとんどの高校生が「え?調査書で?」と思ったに違いありません。高校の調査書が良いことは、「授業に真面目に取り組む」ということを表すものの、私たちが一番力を入れている受験への努力を評価するものではないし、調査書なんて受験を捨てて本気を出せば良い値になる、そう感じる高校生が多いのではないでしょうか?結果的に、高校を信頼して選抜するはずの推薦入試は、高校への不信から学力選抜を取り入れて実施する大学が増え、また一部しか導入されなかったために「脱入試地獄」「脱一発勝負」を達成するものにはなりませんでした。

 またこの時点で、受験生の人間性を評価する面接等の技術はあまり発展しておらず、推薦入試と言っても、あくまでも高校3年間の学力を評価する試験でした。そのため、「不合格になっても満足」といった声は聞かれず、むしろ「どうして推薦なのに落ちるんだ」という声がちらほら聞こえたようです。推薦入試は、学校長の推薦がいるために、たまに学校側から入試を紹介されて受験するため、「もう受かるんだ」という気分になる受験生がいますが、全くそんなことはなく、特に国公立大学では倍率の高いところも見られます。

 自己推薦入試からAO入試へ

 推薦入試と呼ばれるものには、学校長の推薦が必要で、さらに選抜の行われる「公募推薦入試」学校長の推薦が必要だけれども、ほぼ全員入学できる「指定校推薦入試」、さらに学校長の推薦が不必要で選抜がある「自己推薦入試」の主に3種類があります。そして3番目の自己推薦入試は1989年に早稲田大学社会学部が日本で初めて導入したものでした。「平均評定4.5+何かしらの一芸に秀でていること」が出願条件で、面接による選考も課すものでしたが、その後導入された亜細亜大学の「一芸一能入試」や立命館大学の正式名称「文化・芸術活動に優れた者の自己推薦制特別選抜入学試験」など、一芸を強調する入試の中で、「一芸入試」と自己推薦入試は総称されるようになっていきました。

 一芸で選抜することが良いかどうかといった議論はされましたが、この時点でも受験すること自体がどうこうという意見はあまりみられません。それに対して強く受験生に影響力を持ち始めたのが、AO入試でした。

 AO入試はそれまでの推薦入試と違い、学力を含めたこれまでの実績や学問に対する意欲等を総合的に評価し、選抜すると謳った制度でした。現状としては、多くの高校生、受験生が「AO入試」と聞いても、聞いたことがあるものの、推薦入試との違いは分からず、「一芸を評価する」といったものとしてしかとらえていないのではないでしょうか?しかしながら、私も含めて入り口ではそのように考えていても、実際に受験する受験生には、「推薦入試と違い、学力を含めたこれまでの実績や学問に対する意欲等を総合的に評価し、選抜する」と謳っている点は大きな違いとなりました。

高校生の職業観

 話を入試から一旦そらし、「大学進学を目指す多くの高校生は、将来どういった仕事に就こうか、ということに関してどう考えているのか?」ということを考えてみようと思います。恐らく、わりとエリート意識が高い生徒は「官僚になって国を変える」と意気込み、一発儲けたい生徒は「企業に就職する」、その他特定のものに趣味がある生徒はその特定のものと「たくさん関われる仕事をする」くらいの考えで、アバウトに将来を決めているように思います。学力が高いので、経済学部よりも法学部を目指せる、そのため、法律系かな・・・逆に、法学部には行けそうにないので経済学部、だから企業かな・・・特に進学校の生徒はその程度にとらえているのではないでしょうか。中・高で行う職業体験が、実際にアルバイトがやっている程度のもので、学校から提供される情報が、いくつかのアンケートに答えて「きみにはこの職業が向いている!」と適当に決められるものでは、自分がなりたいものを考えるよりも、まず目の前に大きく「プレッシャー」と「欲望」してある偏差値にすがってものごとを考えてしまうのも無理がありません。実際に、大学に入ってからそういった価値観を変更し、他大学や他学部に移動するケースもみられます。そのため、職業を考える時に、「就きたい職業」だけを考えるに留まってしまい、その職業に就いた後どうするのか?ということに関して議論が進むことはほとんどないのが現状です。ましてや「大学で何をするのか」まで議論が及ぶはずもありません。

 蛇足ですが、私が思うに「職業体験」ではなく、実際に「職業」をする必要があると思います。2~3ヶ月、企業に支障が出ない程度に、人からお金をもらうために、企画し、立案し、実行する、あるいは自分の書いた原稿を売り込んでいく、作った音楽を売り出す。そういった血なまぐさい努力とのしかかるプレッシャーが伴う「仕事」という世界で、なお自分がやりたいことは何なのか?を考えさせなければ、職業を考えるスタートにもたてないのではないでしょうか。それは大学生である私にも言えることです。

AO入試と職業観、将来の変化

 そういった職業観、将来観をもった高校生にAO入試は何をしたのか?受験生からしてみれば、過去の実績は変わるものではないために、受験に向けて「大学及び将来何をやるのか?」という部分への問いかけが入試を通じて受験生の間に始まりました。

 まず考えるのは、そもそも自分は何になりたいのか。「官僚」「企業マン」など、ある程度は考えたことがあったけれども、「具体的な職業名」を挙げるとなるとやや困る。「官僚」にも文部科学省や、外務省といった、全く異なる分野を扱う仕事があり、例えば「外務省」に行くならば、どうして外務省が良いのかを考えなければいけません。「中国との問題を解決したいから?」それだけ挙げても、おそらく教授は自分を評価するはずがない、何故、中国の問題を解決したいのか、何故、今中国の問題を解決する必要があるのか?そして何故、自分なのか?それまで評価されなかった将来像が評価されるものへと変化したとたん、一気に考えの深さが変わってきます。そして、それまで理由が必要ではなかった就職先に、理由が求められた瞬間、多くの場合、自分はもともとその就職先を求めていたのではなかったのだと気付きます。就職先にあわせて理由を考えているうちに、自分の中にあるごまかしに気付き、ごまかさず、素直になって考えてみると、全く別の職業が目の前に現れることもあるでしょう。

 何故、自分がその仕事に就きたいのか。これを究極的に考えていくと、その仕事の中で、自分をどう生かし、社会に貢献できるのか?という問いと、問いへの答えが出来上がります。それまで、その仕事に就くこと自体がゴールだったのが、その先にある「社会」にどう自分が影響していくのか?これを考えることの大切さに気付きます。その大切さに気付き、自分のやりたいことを本当に見つけられた瞬間、「大学進学」とその先にある「就職」はゴールではなく、手段へと変わっています。

結論

 AO入試は、教育の世界へ、就職や大学進学が本来ゴールではなく、手段である、そして本当のゴールは別にあるということへの気づきを与えたものであると言えます。それまで漠然と偏差値の世界の中に閉じ込められていた受験生が、AO入試を通して、「自分」を発見し、本当のゴールを確認する。おそらくそれが、たとえAO入試で不合格になったとしても、受験したことに「満足する」原因であると考えられます。

 ただ、実際のところ、AO入試というシステムで将来を明確にして合格したものの、肝心の大学教育がその夢を100%手助けする場所ではないという問題点も存在します。以下は、私がインタビューした法学部にAO合格した受験生の言葉です。

 僕としては法学部の授業ももっと面白いと思っていたし、自分で選ぼうと思えば研究的なこともどんどんしていけると考えていたのですが、少なくとも1年次からはそうではありませんでした。法学部という響きがいいという安直な考えだけで選び後悔している人がいるということを知ってほしいです。必修の授業に意義を見いだせないという友達も何人かいます。

 文章の前半でも述べたように、従来のエリート大学はマス段階に入った後、必ずしも全ての入学生を満足させられるようにできているわけではありません。だからといって社会に通用することばかりを教えていたのでは、結果的に使えなくなること、企業に入ってから学べばいいことを教えてしまうことになることはこの連載でインタビューをした教授が口にしていたことでした。そのせめぎ合いの中で、新しいかたちを今もなお大学は見つけていこうとしています。

大学入試政策とAO入試

 主に、大学入試に関する政策が政府や大学によって語られる際、入試が教育内容自体に与える影響が軽視されているように、あくまでも文書資料から分かる範囲では感じます。大学がある入試制度を打ち出すと、それにあわせて高校や受験生は動き出す。その「動き」の考慮なくして、入試の成功、失敗を語ることはできません。よく「塾が対策して駄目になった」と言う方がおられますが、対策のために動いて駄目になるような入試で、そもそも何を評価しようとしていたのでしょうか?

 「意欲」や「これからのプラン」を他社比較としての選抜材料にすることは、最近の面接研究で「意味がない」とされているため、いずれ縮小し、実績重視の傾向をAOも見せることが予測できます。SFCも含め、早稲田大学等で、総合選抜型のAOから、所定のコンテスト指定のAOへ変化してきている様子もやや伺えます。正直に言えば、私も「意欲」や「これからのプラン」を評価することは公平性の観点から反対です。ただ、この「意欲」や「これからのプラン」の評価が、AO入試において良い影響を高校生、受験生に及ぼしていることを考えると、「全く関係なし」とせず、ある程度のライン考えさせることを条件とする入試を作っていく必要があると思います。

 長くなりましたが、今回はこれで終わりです。「AO入試不合格者の満足感」という私の関心のあるテーマを重点として語ってしまいましたが、大学選択において、この不思議な満足感が何かしらの参考になればと思います。最後に、冒頭で示した記事の続きを、つなげて引用します。

 ◇主婦 46歳(横浜市) 

 「僕、AO入試を受けて本当に良かったよ」――。高校3年生の昨年、志望大学のAO入試に挑戦し、残念ながら不合格になった息子の言葉だ。

 志望理由書を書くために自分と向き合い、新しい音楽配信システムを構築したいという夢をつづった。その過程で様々な本や人と出会った。家族との会話も増えた。一番大きかったのは思いも寄らない情熱を秘めた自分に彼自身が気付いたことだ。(投書は、読売新聞、2008年4月30日朝刊10ページから引用しました。)