第10回:学歴再生産

 学歴再生産

 学歴再生産・・・という言葉を聞いたことがあるでしょうか?私も大学へ入るまでは知らなかった言葉、概念だったのですが、社会学の授業で初めて耳にし、教育社会学の論文を読む中で多くみる言葉となっています。今回はブルデューというフランスの社会学者の考えをもとに、私が、またここを読んでいる高校生の方が今置かれている立場というものは大きな視点に立つとどういったものになるのか考えてみたいと思います。

 私は日本で一番の田舎とされている鳥取で育ちました。母親がフルタイムで働いていたために、幼稚園ではなく保育園で育ち、夏休みというものを知らない幼年期を過ごしました。良く分からないままに、公立高校ではなく、地元鳥取大学の附属小学校に「お受験」をして入学。エスカレーターで鳥取大学附属中学校へ、その後鳥取で一番とされている県立鳥取西高校(都会の人にはピンとこないかもしれませんが、地方では私立のレベルがあまり高くなく、公立高校のレベルが高くなっています)に進学しました。その後、縁あって今の慶應義塾大学SFCに在籍しています。小学校への進学以外は、わりと自分の努力によるもの、他の人よりも頑張って勉強したから、地元では良い高校や、名門とされている大学に進学できた・・・と思いがちなのですが、果たしてそうなのか?というところから、先ほどの学歴再生産という概念が始まります。

 そこそこの高校に進学し、そこそこの大学を目指している人は、おそらく小学校の頃「何気なく」勉強していたけれど、小学校のテストは簡単で、いつも満点近かった人が多いのではないでしょうか?私の頃は「カラーテスト」と呼ばれる業者が作った、主観的には簡単なテストがあり、点数をとる人はいつもとっていました。ただ、おそらく、自分が良い点数をとる一方で、近くには「大して良くない点数の友達」がいなかったでしょうか?テスト以外でも、自分が簡単に授業についていけるのに対して、「何故かついていけない友達」がクラスにはいなかったでしょうか?恐らくその時、多くの方は、「その友達は勉強をしっかりしていないから、ちゃんと真面目に宿題していないから成績が悪い、自己責任だ。」と感じたと思います。

 小学校から中学校へ進学し、都会でいう「私立中学」に進んだ人は、少しレベルの高い人の中にもまれるようになったと思います。ただ、それまでなかった順位というものがテストに加わり、自分が学年の中で何番か知るようになる。成績が比較的良い人は「自分が頑張ったから、良い成績がとれた。他の人は努力が足りないから成績が悪い。」成績があまり良くなかった人は「自分の努力が足りずに、大した成績がとれない。あの人はめちゃめちゃ勉強しているから成績が良い。」と感じたに違いありません。やがて高校生となってさらにレベルが分けられ、そしてそれぞれ大学へと進学していく。中には就職する人もいて、大学に行く組の高校生は、就職する人に対して「大して勉強しなかったからそうなった」と感じたのではないでしょうか?全てが実力主義の結果であり、努力に応じてランクの高い大学へ行ったり、あるいは就職したりする。個々人の努力の結果であるから、仕方のないことであり、受け入れるべきことである。多くの人はそう考えているのではないでしょうか?初めに述べた学歴再生産という言葉はそこへ疑問を投げかけます。

 東大生の親は東大出身である。データはそれを示しています。また「一般入試」だけの層を見ても、有名大学の学生の親は有名大学出身である、また年収が高い。さらに言えば、大卒の親の子は大卒となり、高卒の親の子は高卒となる。引き伸ばしましたが、この現象、親の学歴や年収が子どもにも影響することを学歴再生産と呼びます。「多少、偉い人の子供も偉くなる、そういったことはあるかもしれないが、基本的には有名大学に行けるかどうかは全て個々の努力次第。」そう教えられ、思っていた高校生にとってはある意味ショッキングな事実かもしれません。しかしながら、現在の日本においても、基本的に親と似たような学歴になるという現象は残念ながら起こっています。

 「単に裕福な家庭の子が進学で有利というだけでなく、文化資本(上品で正統とされる文化や教養や習慣等)の保有率が高い学生ほど高学歴であること」(wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%82%A8%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%96%E3%83%AB%E3%83%87%E3%83%A5%E3%83%BCより)を先に述べたフランスの社会学者ブルデューは統計学的に示しました。つまり、高学歴な家庭には「本がたくさんある」など高学歴になりやすい環境が整っているということ。そういった家庭ではやんちゃな子ではなく、お利口な子に育ち、勉強する性格が身につきやすいのでしょう。小学校の頃、自分は「何気なく」勉強していたけれども点数が高かった、でもそうでない人もいた。その時は個々の努力の結果・・・と感じていたかもしれませんが、社会学的にみてみるとそれは大きく学歴再生産が関係していたと考えられます。背景としてはそういった社会構造、家庭環境が関係しているのに、あたかも個人の努力が足りなかったと正当化することを「象徴的暴力」とも呼びます。

 私は現在有名大学と呼ばれる場所にいますが、父親はそんなにレベルの高くない大学出身で、母親は短大出身でした。データの中では珍しい部類に入るのかもしれませんが、先ほどの述べた私の過去の中には二つの偶然があり、それが学歴「不」再生産関係していたのだと思います。一つは、地元では唯一お受験して入学する鳥取大学附属小学校への進学(とはいってもほぼ対策なしで合格する、競争率1倍弱の小さな選抜ですが・・・)。実は親が積極的に通わせようとしたのではなく、保育園の先生に勧められて受験し、入学しました。二つ目はそのままエスカレーターで進学した中学校(これも県内では一番とされています)の時のテスト。他の人と違って塾に通っていなかった私は、全国模試、実力テストなど他のテストを知らないことで、「中学校のテスト」も「満点をとりやすい小学校のテスト」同様に、「満点をとるものだ」と思いこんでしまい、相当勉強した(するものだと思いこんだ)結果、自分の総合点が学年の最高得点と一致していた。親にも半分より上だったら良いと言われていたため、そんなものかなと思っていたくらいで、これは信じられない結果でした。一度そういった成績をとると今度はプライドもあって下げられなくなってしまう。その偶然から大学もそれなりの大学を目指すようになったのだと思います。

 「新しい大学選択」この記事の主題に戻って今回伝えたいことは、自分の立ち位置をもう一度見つめ直してほしいということ。実力主義の中、自分の努力と才能の結果、自分は「この大学を目指している」と思い込んではいないか?そういえば、親と似たような道を歩もうとはしていないか?満足してしまっていないか?一度、私たちを縛る「社会構造」の外に出て、自分を見つめ直してみると、より素直な将来の選択ができるようになるかもしれません。その上で、再び、自分はどういった人間になりたいのか?そしてそのためにどういった大学を目指したいのか。

何にも縛られず考えてみると、見えていなかった自分が見えてくるかもしれません。