第1回:一月の災難

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 第1回目となる今回は、2009年6月と並んで我が人生最低最悪の月となった1月の体験を書く。

年末年始は学校で他校との合同合宿。5日からは講道館で全日本強化合宿。全日本合宿は月1回1週間ほどの期間行われ、中学時代から全国大会の度に戦ってきた選手たちとの練習が毎回楽しい ( キツいけど )。

 今回の合宿は。朝6時からランニング。東京ドームをうんざりするほどグルグルする。
9時からの午前練習は寝技。これまたうんざりするほど回転運動や補強運動でグルグルする。
3時からの午後練習は立技。練習メニュー自体は普段の部の練習より少ないが、メンバーのレベルが高い分キツい。

 この繰り返し。合間に洗濯や食事など各自で管理する事が多く、一日中気が抜けない。
その中で体調を崩してしまった。2日目の夜に熱が出て以降、朝には少し下がって、なんとか一日練習して、という毎日になった。全日本合宿だから休むわけにはいかない、と無理をしてしまったのが裏目に出た。5日目午後の練習で遂にリタイア。監督から一日早く帰る許可を得て、実家の両親にSOSメールを出した。

 高熱で朦朧とする意識の中、咳をし過ぎて痛む胸を抱え、実家近くの夜間救急病院へ。熱を測ると、なんと40.5度 。人生新記録。インフルエンザA型のうえ、肺炎と胸膜炎を併発しているとの診断で、「 タミフルを出しますので、しっかり様子を観ていて下さい 」 と医師から親へ。
やれやれ、俺がおかしくなっても誰も止められんよ。
タミフルと抗生剤とその他たくさん薬をもらって帰宅。
帰宅して1、2時間後、胸が激しく痛み出す。尋常な痛みではない。ついに救急車を呼ぶことになる。
姉が電話で住所と病状を伝えた後に、「 家は外階段が長いうえに、本人は体重が110キロ以上あります。2、3人では運べません 」ときっぱり。
救急車と消防車の2台で総勢10人ほどの救急隊員がやってきた。椅子状の担架に乗せられ、6人がかりで階段を運ばれた。その間にも胸の痛みは激しくなるばかり。死ぬかも。

 市立総合病院のERで鎮痛処置を受け、隔離個室に入れられる。胸膜肺炎での入院だが、インフルエンザもあるので隔離されたわけだ。結局それから9日間病室に閉じ込められた。
といっても閉じ込められているのが苦痛になったのは熱も下がった最後の2日間だけ。それまでは胸の痛みに耐えるだけで精一杯、TVを観ることも音楽を聴くこともできずに、必死に呼吸するだけの毎日だった。咳はもちろん深呼吸もできず、酸素飽和度が90%以下ということで鼻チューブから酸素を入れられながら、6時間おきの抗生剤点滴で腕は穴だらけ。食事も喉を通らない。時々きっかけもなく激痛がくることがあるが鎮痛剤はたいして効かず、もうひたすら我慢、我慢だった。

 入院中、呼吸困難以外で困ったことは、慶應大学の入学手続き日があったこと。
まず学生証用の写真を用意していなかった。坊主が伸びてぼさぼさだった髪を全日本合宿後にきちんとカットして写真を撮るつもりだったから。仕方なく隔離病室から出る特別許可をもらって熱でフラフラしながらコンビニへ行き、酷い頭と酷い顔、酷い服で写真を撮った。大学4年間その写真を使うことになった。困ったもんだ。
それから自主課題計画書。これも全日本合宿後に仕上げるつもりだった。中途半端だったがそれまで書いたところまでをプリントアウトして提出。

 どうなることかと思ったが、9日後に無事退院することができた。次の日学校に行くと「 痩せた 」 と笑われた。ずっと寝ていたから身長は伸びた。練習はまだ思うようにできない。練習ができないと、自分の存在意義を無くしたようでかなり辛いが、仕方ない。

 どんなに体力に自信があっても、無理は禁物。そして、やらねばならないことは先延ばしにはしない。そんなことは分かっていても無理をしてしまうのが柔道家(?)。厄介な人種。慶應でも頑張っていこう。

慶應義塾大学 総合政策学部(2010年 4月入学予定) 藤井 岳