第9回:まぶしい活字
印刷された活字には魔物が住んでいるような気が、かつてはしたものだ。
たとえば、「野菜をもっと食べなさい」とか、同じ説教をされるのにも、生きた人間に向きあって20分間、話し続けるよりも、全く同じことが書いてある一枚のプリントのほうが、信ぴょう性があるように感じられたりした。政治家の言うことは信用できなくても、官邸の出した声明や報告書に書いてあることには、嘘が混じっていないと思ってしまう。
活字になってしまっている分、必要以上に神格化して眺めてしまうものも少なからずあった。くだらない論説文や評論でも、それが印刷された紙面での言論なら、書かれていることの価値というものを過剰に大きく感じてしまう。極論を言えば、僕が手書きで、一字一句違わずにその内容を写したノートよりも、原本のプリントのほうが価値がある。僕が手書きで書いた文章よりも、それをプリントした一枚の紙のほうが価値がある。そう信じさせる何かが、活版印刷にはあった。
ほどなくして、それは「編集」というプロセスの為せる業だと気付いた。頭の中にある、ボンヤリとしたまとまりのない考えを、言葉にして、並べる。それが作家の仕事なら、編集者の仕事は、その並べられたパラグラフを、適切な位置に並べ替え、より多くの人に伝わりやすい表現に校正し、全体の流れから必要な文章の加筆を要求したりする。そうして、万人に伝わるよう準備された活字は、魔物が住んでいるかのように力強い。
今はネットがあり、コンピュータがあるから、誰もが活字を扱える。誰もが印刷できるし、自主的に雑誌を作るなんてことも容易いことだ。しかし、ネットの中であっても、編集を通した活字を用意することは、やはりまだ難しい課題だ。
しかし、万人に読まれる文章であることは違いないのだから、文章を書くときは「編集」のプロセスを、面倒でも必ず踏む。それをいつも心がけている。