第8回:写真と死

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あなたのことを、これから100年後に覚えている人は一体、何人いるだろうか。
最低限、顔と名前と、どういう人生を送っているか(送っていたか)を覚えてくれている、というだけでもよい。

よほど幸運か、卓抜した才能を持っているか、どちらかでなければ、その答えはおそらくゼロだろう。
もちろん、医学の発展による、とか、類まれなる長寿と記憶力の持ち主が隣人にいる、とか、いろいろな事情がありえようが、ほとんどの人間がゼロだ。
生きているときは、人生山あり谷あり、波瀾万丈の中に一筋の希望の光芒があり、幸福感や不幸感があったりするものが、
死んでいる人間のそれは、現状、記録でしか語り得ない。
文字であったり、写真であったり、映像であったり。かつてそれはすべて高価な媒体だったから、
歴史に名を残す(=記録が存在する)人間は、それだけでも非常に幸運だったといえる。
もちろん、今は、ライフログという言葉が一般にあり、
半永久的に日記データを保存できるソフトウェアも、その仕組みも、ほとんどタダで手に入る。
これがどういう意味を持つかも、歴史のみぞ知るわけだけれど。

ともかく、生きているうちはいろいろなことがありましょうが、死んでしまうと、記録のみがその人を表すようになる。(ちなみに、この考え方は、リチャード・ドーキンスの「利己的な遺伝子(The Selfish Gene)」という著書に詳しい。物理的に広がっていく「遺伝子」のみならず、その人を「知っている」ということ、つまり「模倣子」(ミーム)が伝わっていくという考え方だ)

だから、ある言説で、「人間の価値は、死後にはじめて決まる」という言葉があるが、これは真理の一端を捉えているなと思う。
逆に言えば、生きている間はなんでもできるということ。いくらでも価値を上げ、下げることができる。もちろん、「価値」ってなんだよ、という議論はこの場合、置いておくけれども。

ところで、僕は写真というものが好きではない。
映像は嘘をつける(ジャック=ゴダールの言葉に、「映画は毎秒24回の真実だ」というものがある。24フレームの嘘、ということになる)。
文章はもちろんそうだ。
そして、生きている人間も、嘘をついている。
演技や演出として、振る舞いという一連の動作の中でアイデンティティを身にまとっているのだ。
しかし、写真は生きている人間の1フレームだけを抜き出す。

それなので僕は、写真は死に近いメディアだな、と思っている。

更新:2012-08-21 慶應義塾大学 環境情報学部 中園 翔