第13回:ゼロでもイチでもない
量子コンピュータ、というものを知っているだろうか。
なんとなく、今までのコンピュータよりスゴイもの、という感覚はあるだろう。では、どこがスゴイのか?
今、我々が使っているコンピュータは、ノイマン型コンピュータといって、「半導体が電気を通している状態と通していない状態で、ゼロとイチを識別し、その情報を演算する」ものである。
つまり、こうしてあなたが見ているブログの記事も、これから見ようと思っているかもしれない宇宙の風景の動画も、机の隅っこにおいてある電卓も、すべて「ゼロとイチ」を基本的な単位として、その重ねあわせで物事を計算している。
「する/しない」「綺麗/汚い」「速い/遅い」、といった言葉から、発展しては「正義/悪」、「民主主義/社会主義」というように、常に物事の対立構造を決定し、二項対立の構造に持ち込んでいくのが、はるか昔から続く西洋の哲学の系譜である。そして、コンピュータの基本単位も、「ゼロ/イチ」として、これに通じるものである。
そこにいたって、量子コンピュータ、といえば、どことなく欧米的な、アメリカ的な響きのする言葉だが、実際はこれは、非常に東洋的な思想だ。
量子コンピュータのキュービットは、取りうる物理量が「ゼロ/イチ」より圧倒的に多い。無数の計算結果について並行で処理できるため、ゼロでもイチでもない、複雑で延々と続いていく連続した数値が取りうる。
(詳しい概説については、どうか書店の「コンピュータ」の棚を調べてみて欲しい。立ち読みでもおおいに刺激を受けるハズ。)
これは東洋思想だ。東洋仏教の悟りは、「中道」という道を選ぶことにより開かれた。これは、
「禁欲することが人間として正しい(悟りに近い)かもしれない」「だが、禁欲しよう、悟りに至ろうと思うことが、欲望にほかならない」
「であれば、禁欲もせず、堕落もせず、中道を」といったテーマ(もちろんこれは、概説にもならない説明だが・・・)である。
「長があるとき、短がある」という言葉に代表されるように、東洋仏教は、相対性によって成り立っている。「イチがあるから、ゼロがある。その逆も然り」ということである。
こういう相対性を持った東洋仏教は、かつて神秘主義と同一にみなされたり、アヤシげなものとして扱われたものだったが、
コンピュータとして、我々の日常に最も親しい隣人としてこの思想が入り込んできた時、技術的革新以上の、大きな生活や社会の変化が訪れるのではないか?
と、ひそかに期待している。