第12回:神はいるか

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世界に最初のコンピュータ(教科書に載っているような、非常に大きなものだ)が生まれたときの、面白い逸話として、
アイゼンハワー大統領が、そのコンピュータの部屋に行き、こう問いかけたという。
「この世に神はいるか」

興味深い質問だ。本当に、この世に神がいるかどうか、ということもそうだけれど、あまねきアメリカの大統領が、コンピュータに対して、知りたいことが「神はいるか」とは。

言うまでもなく、現代には子供でも知っていることであるが、コンピュータは全知全能ではない。知らないことは多いから、「神はいる」とプログラミングしておかなければ、「神はいる」とは答えてくれない。あるいは、「1+1が2のとき、神はいる」とでも定義しないといけないわけだ。すべてに明文化された論理が必要となる。

それに対して、神というのは一般的には、永遠と連続と不死と偏在を司る存在である。どこにでも、いつでも、だれにでも存在できるものだ。
余談だが、これを「Ubiquitous(神の偏在)」と言い、これがSFCでも盛んに研究されているような「ユビキタスコンピューティング」の元となった概念だ。

機械は神ではないから、限界は存在する。たとえば、かの有名な「ファウスト」の中では、機械人間であるメフィストフェレスは、あらゆる手段と論理をファウストに提供する。ついには生きる目標までをファウストに与えようとするが、ファウストはそれに与しない。

ファウストには別の、生きる目標があったからだ。

これと同じように、コンピュータに出来ること、与えられることはほぼ無限に拡大していくとしても、人間の思考の枠組みを縛ることには限界がある。対して、神には常に全能性があり、すべての我々の思考はその枠組の中におさまる。

この存在を、我々が念頭において規定することでー神が存在すると考えることが、我々にどのような影響をもたらしているのか。非常に重要なテーマであり、社会を考える上でも有用なテーマだ。

ちなみに、冒頭のアイゼンハワーの問い、「神はいるか?」の答え。
コンピュータは「Now there is.」と答えたそうだ。
まあ、プログラマーのユーモアの賜物だと言えるだろう。

更新:2012-09-22 慶應義塾大学 環境情報学部 中園 翔