第14回:

未分類

「なぜそうするのか?」という倫理の話はさておき、たいていの人は他人の物を盗んだり、他人に危害を加えたり、殺してしまったりしたことはないだろう。そうしたい気持ちがどんなに強くあってもだ。

「愚者は経験に学ぶ。智者は歴史に学ぶ」とは今は昔のプロイセンの鉄血宰相ビスマルクの言葉だ。意味はそのまま。他人を殺してしまえば、逮捕され、処罰されるのは当たり前。それをわからないで、やってしまったことに後悔するのが愚者、というわけだ。

歴史に学ぶことは多い。欲望に身を任せれば破滅するし、お金を借りすぎてもいけないし、食べ過ぎてもいけない。それは実感していなくても、歴史から学んできたことだ。これと同じように、思想的にも、感情的にも、いろんなことを歴史は語る。

ところでビスマルクは、自由主義者と対立した宰相であり、戦争を繰り返してドイツを統一に導いた傑物であるが、
「現在の問題は演説や多数決によってではなく、鉄と血によってのみ解決される」
との言葉で有名な「鉄血演説」をしたことで知られている。銃と暴力でしか具体的な問題は解決できないという論だ。

あらゆる決定に民主主義的な議論が当然なされるべきであるという文化的潮流(フランス革命の波!)があった時代に、この演説は過激だった。当然受け入れられるものではなかった。
民主主義はあまりに希望に満ちあふれていて、言論の自由と議論はかつての圧政よりも甘美な経験だった。

しかしビスマルクは歴史に学んだ。統一とは圧力であり、民主主義はスモールサークルでしか成立しえないユートピアの産物であるということを歴史に学んでいたのだ。現に、中世ヨーロッパの常識は貴族政・王政であり、民主主義は「過去の産物」で、大きな社会を導くシステムにはなりえないとされていた。ほとんど衆愚政治と同一視されていたこともある。

しかしプログラマは歴史に学ぶことが難しい。プログラマにかぎらず、あらゆるクリエイターは歴史に学ぶことが出来ない。いまだかつて電気というものが存在しえなかった時代に、歴史から電気の存在を見出すのは至難の業だ。雷のエネルギーは、歴史によれば神の御業であるわけだから。だから、歴史のみが我々の教師ではない。
実験と体験を通して経験を深めていく以外に、真理を探求する道はなく、新しいモノを創造する術はないのかもしれない。

結果として現在に至るまで、民主主義を望む社会的ムーブメントは大きく存在し続け、我々の意識の根底にある。
民主主義を成立させるために必要な合議制と分割統治は、ネットワークの拡大にフォローされながらうまくやっているように思う。
つまり、ビスマルクは歴史に学んだが、未来を視ることは出来なかった、というわけだ。
まあ、これほどネットワークが発達して、これほど広い範囲の世界に、誰しもが言論をすることができるようになる時代(しかも、弾圧することはほとんど難しいときた)が来るなんて、創造もできるはずはないけれど。

更新:2012-10-05 慶應義塾大学 環境情報学部 中園 翔