第15回:ハリウッド的アラスジ

未分類

少し古いが、「ティファニーで朝食を」という小説がある。以前も紹介した、トゥルーマン・カポーティの小説で、

ティファニーの宝石店で朝飯を食べてしまうようなリッチで破天荒な女性をヒロインにした小説だ。

主人公の男は、このヒロインの傍若無人さに嫌気がさしながらも、まぶしい魅力に翻弄され、

ラストにはヒロインは麻薬常習の容疑で警察に追われ国外逃亡をするのだが、

そこまで彼女に尽くしてきて、逃亡の手配までした主人公には、一切振り向きもせずに去っていく。

主人公はその後、彼女が飼っていた、逃亡をするときに捨ててしまったネコを見つけて、それを飼って思い出とする。

細部は微妙に違うが、このようなあらすじで、ヒロインの魅力に対して救いのないストーリーが好きだった。

しかし、これがハリウッドで映画化(かのオードリー・ヘップバーンが演じた。ハリウッド史に残る名作ということになっている)されたあかつきには、ストーリーは大きく変わった。

ストーリーのラストで、オードリー扮するヒロインは、国外逃亡へ向かうタクシーを止め、飼っていたネコを逃がす。原作では、彼女はこのまま国外逃亡をしてしまい、主人公がその後、ネコを探しに街を歩きまわる……。という筋書きだが、映画版では、主人公の愛を実感したヒロインが、突如タクシーを止め、自分で捨てたネコを自分で探しまわり、ネコと主人公と抱き合って終わり、というものだ。

こういう、原作と映画のズレという例は古今東西ありあまるほどあるわけで、いちいち長文を割いて説明するまでもないことかもしれないが、ハリウッド系列の映画は特にそれが顕著だ。

そこで取り上げたいのは、「なぜあらすじは変更されるか」だ。「あらすじが変更されるのは腹が立つ」ではない。その気持はそれぞれにしまっておくことにしよう。

小説や戯曲などの活字がもたらす劇空間は、深い感情移入を前提にしている。主人公の目線で話が進めば、主人公の見聞きしたことはそのまま読者の見聞きしたことだし、物語が進んでいけば、(それが優れた物語であれば)「主人公が悲しんだ」と書いてあれば、読者もその通りに悲しむことだろう。主人公が見えないものは、見えないのだ。

映画は全く事情が異なる。通りの死角や街の上空からのショット、回想シーンはもちろん場面の切り替わりや主観の変更は頻繁に行われる。小説でそんなことをすれば、読者は「今、誰の目線なのか」がわからなくなって混乱するだろう(そういう小説もあるにはあるが・・・)。

それで、どうしてそういう演出表現が成り立つかというと、主人公は役者であり、読者ではないからだ。魅力的なヒロインは、読者の想像上の存在ではなく、オードリー・ヘップバーンなのだ。だから、オードリー・ヘップバーンが主人公を置いてけぼりにしても、それはひどい話だ、ということになるわけだ。

ハリウッド的あらすじがハッピーエンドで終わる時代は終わったという言説もある。まあ、これもわかる話だが、

本当に主人公に感情移入できる映画というものは、どこにあるものか。

更新:2012-10-27 慶應義塾大学 環境情報学部 中園 翔