第18回:アルケー

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今では、義務教育を終えた人なら誰しもが知っていることだが、

我々の目に見えるものはすべて原子の集合である。原子の集合である分子の集合であり、その原子は陽子と中性子と電子からなる。陽子や中性子を構成するものをクォークと言うわけだ。

だが、我々が実際に原子を目にすることは(その気にならなければ)できない。この文章を読んでいる端末(パソコンであったりスマートフォンであったり)をどれだけ粉々にしても、原子そのものの構造を見たとは言い切れないだろう。(これは「金」については例外で、金は分子的に非常に安定している物質だ。だから錆びにくいし、価値となる)

原子を目にできないにもかかわらず、我々は原子やクォークをあらゆるものの最小単位と考えている。これは「原子論」と呼ばれる考え方だ。

紀元前6世紀から4世紀ごろにかけて現れた、ギリシアの哲学者たちのことを「自然学者」と言う。まだ「哲学」という言葉が存在しない時代だ。彼らは常に、「万物の大元(アルケー)」とは何かということを考え、議論した。あるものは、「土が万物の大元だ」と言った。あるものは、「生命を生む、水が万物の大元だ」と言った。しかし、またあるものは、「火はあらゆるものを蒸発させる(エネルギーの可能態である)。だから火がアルケーである」と語った。

もちろん、今の我々からすればこのような議論はお笑い種に感じるかもしれない。実際に、紀元前のこの議論も、「すべての大元は、それ以上に分割できない最小単位(アトム)から成る」と語ったデモクリトスの登場によって一端の終焉を迎えるわけだ。

しかし、もしも万物の大元が火であったら?もしも水であったら、土であったら。そんなことはありえない、と考えるのは非常にもったいない。実際に、この宇宙は最初はエネルギーであったという理論もあるし、我々が目にするあらゆる建築物や生命はすべて、水を使って作られているし、我々も水によって生きている。土はこの地球を支える土台である。だから、火からすべてが始まっていると考えても不都合はないし、考えること自体に不都合があるはずはない。自然学者たちのような議論はしごく全うなものである。

万物の大元(アルケー)についての科学的探求は常に進んでいるが、我々の統覚的な理解からはズレが生じ始めている。クォークや原子は体感的に知覚できないから、もはや「万物の大元は神である」と言っているのと変わらないかもしれない。クォークの大元は何なのか?ということだって疑問であるわけだ。

自分なりの価値体系を、科学の体系から離れて作ること。科学を道具と見なして、価値の体系を考えて、構築していくことは、エキサイティングな試みだと思う。

更新:2012-11-03 慶應義塾大学 環境情報学部 中園 翔