第22回:インタラクションについて・2
インタラクションについての話、その2。あらゆる物事、それはもう朝起きて夜寝るまで、生まれてから死ぬまでの出来事、人間の行為の中で、一般化できるところを一般化し、共通のルールで、より簡単な方法で統一していこうという試みがインタラクションデザインの(ひいては人類の科学史の)歴史であるが、このやり方には例外が二つある。単純化と共通化、一般化という思想の持つ欠点だ。
一つ目の例外は、単純に「洗練するということ」を目的にしている場合。スポーツとか、伝統芸能のような、「行為を省略するのではなく、それ自体の価値に主眼を置いた」行為のこと。まあ、それはもちろん、自動化と共通化の果てに、ベッドから起きる必要もなく一日を終えることが出来るようになれば、もちろん健康にも悪いし、生活の意味と主目的を失うことになるだろう。仮に、極限まで効率化されたバスケットボールー指先がボールに触れただけで、ボールがゴールに吸い込まれていくというような競技ーがあったとしても、誰もそれに喜びや楽しみを見出したりはしないだろう。
だから、こうした、本能的に歓迎される作業や処理は、インタラクションデザインの例外だ。
そしてもうひとつ目。これは非常にフェイタルな問題で、「効率化の考え方にはイノベーションがない」ということ。人間の生活と業務を限りなく効率化したところで、そこに生まれるのは限りなく余暇であり、空白の時間とエネルギーである。人とモノとの関係を、こと「効率化」するにあたっては、何も生み出されるものはなく、何かを生み出す「余暇と余地」が生まれるわけである。
考えてみれば、「芸術活動の発展には奴隷制度が必要不可欠」という古代ギリシアの制度に対する批評があるように、機械化やオートメーションによって効率的な奴隷を生み出したことを前提にして、我々の科学技術や文化は成り立っている。
それが向かう先、芸術の成立、芸術のルーツはどこにあるか?ということとは全く別の話だ。
芸術の成立ー人間による行為への意味付け、目的化、動機の決定には様々な要因がある。崇高な目的や理念であったり、即物的なエネルギーであったり、動機はまちまちでも、それらすべてに共通していることがあるはずだ、とかつての哲学者たちは考えた。かつて、というのは、それこそ紀元前200年とかそこらの話だ。
人生の意味とは何か?利便化して機械化していく文明に対して、今ここに私が存在する意味は?
生活の大部分を機械が肩代わりしてくれるのであれば、私は何をすることが真の使命なのか?
それまで「生きること、生活をすること」が動物的使命であった人類にこうして哲学が興ったというわけである。