第20回:脳と心

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今でこそ、コンピュータと情報科学がここまで発展して、不可能と可能の界面が少しずつ明らかになって、そして「思ったよりも、出来ないことは無いんだ」という実感を、おそらく多くの人が得るに至ったであろうことは想像に難くない。たとえば、本田技研の誇る「ASIMO」は、初めて登場したときの拙い歩行とはうってかわって、現在では階段の登り降りや、モノを掴んだり、「走る」ことも出来るようになった。

人間の感情を解析する手段も多様化していて、かつてはその人が書いた「文章」を感情解析したり、「天気の良い日の公園を歩いている人は気分が良い」という前提をあらかじめ定義した上で研究を進めたりといった事例が多く見受けられた(もちろんそれ自体は悪いアプローチではない)が、現在の技術水準は、他者の感情を理解するために、直接脳波を読み取ったり、あらゆる人間の行動をセンシングすることすら可能にしている。

だが、それでも、「人間そのもの」を作れるか、という点では懐疑的な見方が強いのが事実だ。
1990年代には、「脳と心」といった二元論的な論文や書籍が多く発刊された。それらに共通したテーマは「脳は科学の範疇を超えた何かがある。科学の範疇に全て収まるものだとしても、脳の持つ複雑な機能を、コンピュータが再現することはできない。なぜなら、コンピュータはゼロとイチを判断することしかできない、ビットの重なりでしかないからだ」というもの。
この風潮は今でもある。「こころ」とコンピュータは全く別のモノとして扱われる。

しかし、実際には、大脳皮質などを代替することで、充分に脳機能もコンピューティングすることができるし、知覚や統覚を用意することは充分にできる。「自我」を持っているかどうかは別にして、AIと学習機能をを組み込んでやれば、いつか未来には「ブレードランナー」のようなアンドロイドを作ることはできるだろう。

しかし、脳機能にはそれでも「何か」があると考えてしまうのが人間の心理だ。僕は他人のことはわからないが、自分の考えていることはわかっていても、わかっているようでわからなかったり、自我というものがどうしても懐疑的に感じられたりする。
いま、話している相手が機械なのではないか、と考えるのが当然のことであれば、今、ものを考えている自分も機械なのではないかと考えるのもまた自然だ。
そもそも、脳機能というものは、ニューラルネットワークといって、シナプスの情報伝達、つまり、ゼロとイチからなる情報量からなると考えられているわけで、そこにもコンピュータとのつながりはある。

この話は少し長くなる。要約すれば、「出来ないことはないかもしれないが、わからないことは依然としてあり続けるであろう」ということになる。それは、何故だろうか・・・。

更新:2012-11-13 慶應義塾大学 環境情報学部 中園 翔