第21回:インタラクションについて・1

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努力は嘘をつかない、とは良く言ったもので、人間の最大の武器は、習熟することである。長年の修行を積んだプロの料理師は、塩のひとつかみが非常に高い精度で1グラムに近い重さになるよう習熟しているし、プログラマーであるかどうかにかかわらず、PCを前に作業することが多い人は、たいてい目を隠してもキーボードが打てるはずだろう。

どのような複雑な作業であれ、練習と反復を繰り返せば、人間は習熟をしていく。

それは脳が動作を覚えるということでもあるし、身体が覚えるということも、両方ある。(もちろん、身体を統制するのは脳なわけだが……。)

こうした努力というものを全てオミットしようと試みているのが、インタラクションデザインという学問分野(僕が研究している分野でもある)だ。あらゆる労力をなるべく排除し、どのような人間にも同じように使えるモノを設計し、開発することである。以前取り扱った、interface(外側の、目に見える部分、操作する部分)に対して、interaction(モノと人、人と人との関係、処理の内容)のことだ。

たとえば、塩の小瓶が、どのように扱っても必ず一振りで1グラムしか出ないような作りにデザインされていれば、プロの調理師の何年にも渡る修行と同じだけの成果を(こと塩を一振りするということに限ってだが)得る事ができるだろう。初めて見るものでも、すぐに見ただけで使えて、それが適切な使い方に成るようなモノは、インタラクションデザインが成功している例だ。もちろん、「職人のノウハウ」を自動化することに対して、少々懐疑的に(懐古主義的に)なる気持ちもわかる。しかし、僕や僕のようなプラグマティストたち(実際に物事がどう作用するか、で物事を考える人のことだ)にとってみれば、塩のひとつまみには機械では推し量れない「何か」があるとは感じない。1グラムは定量化された1グラムなのだ。(もちろん、あなたが作ろうとしているレシピの1ページに「塩 叔父さんの人差し指でひとつかみ」などと書いてあれば、それはノウハウと言って差し支えないが)

で、この試みを推し進めていくと、朝、起きてから、夜、寝るまでの、生活のかなりの部分が昔にくらべて自動化され、利便化され、かつては覚えなくてはならなかったことを、随分覚えなくても済むようになったことに気づく。

だが、この「作業と処理の自動化」という考え方には限界もあるわけだ。それは何かというと、また次回。

更新:2012-11-27 慶應義塾大学 環境情報学部 中園 翔