第26回:タブレットの時代

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2012年は様々なことがあった。もちろん、僕の身にも様々なことが起こったりしたのだが、このブログではそれはあえて扱わないことにする。洋々の他のブログではSFC生の生活を十二分に知ることができるからだ。もちろん、これからも「SFCのプログラマー」という僕自身の視座というものからは離れることはないようにするが。

さて、今回は「タブレットPC」についての話。こちらも2012年に、大きく躍進したものの一つ。
このタブレットという概念が一般に普及され始めてから、つまり、Appleの今は亡きスティーブ・ジョブズがコンシューマー向けイベントでその手に初代のiPadを掲げてから、数年が過ぎたが、この数年でタブレットはあっという間にシェアを加速した名物商品となった。かつてのスマートフォンから、大型化、高性能化の流れは推し進められて、今では、5インチ、6インチを越えるスマートフォンも登場していて、これは「ファブレット」という名前で呼ばれている。

正直に言って、僕はこの流れはあまりイメージできていなかった。
人がタブレットを手にしている姿は、なんだかエジプトの壁画に出てくる書記官みたいだし、携帯電話のように「ぴったり身につけられる」コンピュータというわけでもない。カバンからタブレットが出てくるのは不自然に思えた。

インターフェースの哲学として、僕は、再三このブログで書いているが、「人がコンピュータを持たないで、存在することにすら気付かないけれども、便利になるようなアレコレは確実に行われている」というものを持っている。
そこに至って、PC、スマートフォン、タブレットの三つを使いこなして、それぞれにアプリケーションがあり、その操作方法がある、というのは、正直よくわからない流れだったのだ。

とはいえ、僕も2012年にはタブレットを購入したし、便利に使ってもいる。読書端末としては、蔵書が、本棚がすべて薄いタブレットに集約されているのは非常にありがたいことではある。

問題になるのはこれから先の技術の革新だ。タブレットとスマートフォン、PCはどのように進化し、どのような方向に傾き、どういう遠未来が待っているのかを想像することだ。
僕はそれを、先ほど述べたような、ユビキタスな社会を想像することで済ませていた。そこにはタブレットPCの姿はなかった。
しかし、実際には、論理的に素晴らしい理想社会に向けて現実が進んでいくのではなく、「快不快」や欲望といった原理的な部分で、きわめて細部での取捨選択の積み重ねによって現実は進んでいくのだと思う。つまり、タブレットは現状、非常に便利だから、タブレットが売れる。そして、その次に進む方向は?次は、何が便利だろうか?そこには、インターフェースの哲学など、関係はないことなのだ。

更新:2013-01-16 慶應義塾大学 環境情報学部 中園 翔