第27回:自由と平等と常識
我々にとって、「個人の自由」と「法の下の平等」は侵しがたい絶対の権利である。それは、法律や憲法で定義されている以上に、我々の意識に刷り込まれている概念だ。
たとえば、中学生が学校に行くことは義務であるが、放課後に何をするかを強制するものは存在しないし、中学校を卒業したら、高校に行かずに、家業を継げと親が命じたとしても、子供にはそれを「選択肢」として処理する権利があると考えるのが時代の常識だ。
だから人間はみな自由である。
たとえば、1ホールのケーキがあり、人間は10人いるとすれば、1人が食べる量は10分の1切れとなる。これはすごく自然な考え方だと我々は考えるし、小学1年生の算数でだってこういう問題を出して教える。
人間はみな平等である。
この二つは、今でこそ当然として考えられる権利であるが、何も人類の歴史が始まってからずっと当然のようにあり続けたわけではない。むしろ、ここ300年かそこらで市民権を得たような、非常に若い概念である。
民主主義の原則は、革命の原則である。市民革命の原則であり、アメリカ独立革命、フランス革命、イギリス革命のそれぞれを貫いたコモンセンスである。
それがつまり、個人の自由と法の下の平等である。(これが「人間の自由」と「神の下の平等」だと、また違う意味合いになってきて、それが難しいのだが)
しかし、ほんの昔までは、どこの国にもお殿様がいたし、支配者がいて、被支配者階級がいて、奉公があった。民主主義的市民革命を最初に起こした、アメリカの初代大統領・ジョージ・ワシントンだって奴隷を所有していた。
当たり前のように人は平等ではなく、生まれや育ちは絶対的に人を左右したし、どれだけ賢くても、平民の生まれと貴族の生まれでは初めから大きな差があった。たとえば平民の生まれであれば、どれだけ多くの言語を話すことが出来ても、国王お抱えの外交官になるのは難しくて、商人になって大儲けするのが適切であっただろう。
個人の自由も当然のように制限されたし、税制だって今より不適切なものが多かった。自由を制限するというよりは、自由というものが存在するのではなく、「許された行為」がいくらか存在するという考え方のほうがもっともらしい。
で、これを「不条理だ」と考えたのが民主主義の革命の歴史であり、我々の世代まで依然として受け継がれている民主主義の考え方が上に述べた二つの概念であると僕は考えている。