第28回:自由と平等と矛盾

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前回述べたように、民主主義の理念は当たり前のように我々の価値観を侵食している。しかし、それはまだ若い概念であり、それでありながらはるか昔に一度失敗した過去を持つ。

人間はみな平等であり、個人はみな自由であるというのは、すべての人々にとって本当に良いことなのだろうか?
あらゆる決め事は皆で平等に決めて、個人はそれでいてあらゆる物事に対して自由であるというのがこの考え方だが、実はこの二つは大きく矛盾していると思う。

「自由」であるということは、束縛されないということだ。制限がないということは、権利を持つということだ。あらゆる権利を持ちながら、それを捨てることもできるということだ。
日本の法律が定義するように、「権利」は「義務」を果たすことによって生じる。たとえば勤労の義務などだ。「個人の自由」が述べる「個人」とは、義務を果たしている人間のことだ。そういう考え方をしないと、誰もが好き勝手にやれる、ということは真に達成することは難しいのだ。
ありとあらゆる人間が、全員、自給自足を出来て、衣食住をまかなう土地を確保できて、しかも自衛できる、というのであればそれでもいいが、人間の総数と土地の比率で言えばそれは無理だ。

だから、奪い合いや競争が起こる以上(それは経済でも軍事でも)、強者と弱者が生まれる。
強者は当然、必要以上に奪うこと、勝つことをやめずに、利益を集合させる「自由」があるわけだ。そして、弱者に対して「施し」をする義務はないので、「雇用」したり「奴隷に」する権利や自由もあるわけで。
自由ということから生まれた競争は、必然的に、より自由な人間と、より不自由な人間を生む。これは「平等」ではない。みんな同じように高級レストランに通えるわけではない。

というわけで、近代的な法律制度では、ある程度、人間に「すべきこと」を定義して、また、税制やその他の制度面で強者と弱者の扱いを変えている。
国家は国民の純粋な集合であり民意の集合ではなく、国民にとって逆らいがたい「強者」として存在することで、ある程度バランスを取る役割をする。所得税は累進課税制度を取ったりする。これは理想に対する制度面での妥協だ。

では、「個人の自由と法の下の平等」とか、民主主義の「コモンセンス」は欠陥のある概念、あるいは夢想なのだろうか?
古代ローマでは民主主義と奴隷制が同時に成り立っていて、それで矛盾していなかったと言う。しかも、貴族政まで取り入れていた。それでも、少人数による全員参加の民主主義的な議論と議会は、いまでも、民主主義の理想といわれる。

実際にどう世の中が動いているのか、ということと、人々の生活に潜在する哲学は、相反していることがままある。そこにどんな妥協があるのか?それを考えることが、政治や人生を考えることにつながっていくと思う。

更新:2013-01-16 慶應義塾大学 環境情報学部 中園 翔