第37回:脳とハードディスク
この洋々のブログコーナーにおけるメインの読者層は高校生だと思うが、みなさんは日記を書いているだろうか。もちろんブログなどでもよい。
情報を自分の中に取り込むことと同じくらい、吐き出すことは重要である。だいたい同じ時間に起きて、同じ授業を受けて、同じ部活動を行なってから、同じテレビ番組を見て同じような時間に寝る、という仲間が高校生の頃は少なからずいるものだが、それでも「個人差」というものはもちろんある。
同じニュース・トピックについて「どう感じるか」をエッセイとして書き綴ってみても、内容は違ってくる。文体も違ってくる。一言一句同じような文章には、双子でだってなり得ない。
だが、この「個人差」も、極論を言えば「言葉にしなければ存在しない」のと同義だ。言葉にするまでは、何かを書くまでは「同じ高校生」のままだ。
筆記というのは人類の文化であり、知恵であり、発明だ。人間の記憶領域は有限であり(無限なのかもしれないが、少なくともハンドリングできる引き出しは有限だろう。312日前の朝食を思い出せるだろうか?カレンダーや日記なしで?)、外部に記憶領域を置くことは、脳の記憶にまつわる機能をアシストすることと同時に、脳の情報を整理することにもなる。
これはコンピュータにおけるRAM(+CPU)とROMの関係に似ている。コンピュータは、物理メモリと呼ばれる比較的記憶領域の狭い空間の中に、いくつものアプリケーションやシステムのための記憶域を確保する。マウスやキーボードが今どんな入力を受け取っているか、という情報に加えて、メールアプリを開いているか?今は何時だろうか?端末の温度は何度になっているだろうか……といった様々な情報が扱われる。これらはすぐに削除され、新しい情報に上書きされていく。そうした情報を保持して永続化していくのがROMであり、外部記憶装置だ。現代のコンピュータが、もとは電卓でありながら電卓以上のことをしているのはこの仕組の上に成り立つ。
これと同じことが人間にも言える。いま右手はどこにあって、明日の予定は何で、昨日の夜はどんな気持ちで眠りについたか?
そうしたことを脳はすべて永続化しない。永続化すべき重要なデータは外部記憶領域に留めなければいけないから、筆記という発明が生まれた。
だから、「メモリはある程度使っているのだけど、記憶領域は新品同然のコンピュータ」、あるいは「多感な時期に学業も部活も頑張って、いろんなことを考えてきたけれど、今ではその時何を考えていたのか覚えていない人」にならないように、データの永続化をはかることをおすすめする。データにすることで、統計が取れるという大きな利点もある。脳を信頼しすぎないことだ。