第26回:丹下健三から学ぶ
前回書いた記事は倫理や道徳問題のヒューマンスケール化を扱った。今回はその逆ケース、つまりある問題のヒューマンスケールの脱却を題材にしてみようと思う。戦後ヒロシマを舞台とした一連の事柄についてだ。1945年にヒロシマが原爆によって都市の死、人の死を経験したのは誰もが知っている。しかしその後どのように都市と民の再生が計画され、悪戦苦闘の結果それがなされていったか、人々はあまり知らない。そこには当時まだ30代の若き日の世界的建築家 丹下健三の努力があったことを、人々はあまり知らない。
彼は放射線汚染による影響をかえりみず都市復興計画にいち早く志願した。両親を失い、幼少期の思い出の詰まった街を無くした状態で当時の東大教授として調査団と現地入りすることになる。人々が死に絶え、爆風と灼熱により何もなくなったこの地には、ただ盆地を囲む山々とそこから流れる川、そしてその先にある厳島の神社がたたずむ。丹下はここに近代主義を基に「平和の工場」なる記念碑の造営を、そして戦災被害者を慰霊するものの計画を始める。そこにはヒューマンスケール(市民の慰霊)と脱ヒューマンスケール(戦後到来する車社会や大量生産基盤の大都市)の間で葛藤をしている丹下のが見える。
広島市側は丹下らによる提案を叩き台として復興計画を進める。現在の市内の住宅、公共施設、オフィス、商業、行政、工業の各地域の配置のほとんどは丹下の提案に沿ったもので、広島駅からカタコトと路面電車で市内をまわるとそれが容易に確認できるはずだ(顕著にそれが表れているのはコアとなる原爆資料館から原爆ドームにかけての公園計画だ)。これはそれまでの建築単体(ヒューマンスケール)でものをみてきた建築界に新しく加わった「環境」や「都市」などのワードが示すような、脱ヒューマンスケール的な視点の好例といえる。そして丹下等による計画から10年ほど経つ頃、日本は高度経済成長期に突入していく。戦前は軍用港として発達した広島も、戦後は工業港に姿を変え歩みを進めた。その後も稚内市計画や東京都市計画1960、東京オリンピックと日本中の大計画の中心人物として官僚的に動いていく丹下はますます脱ヒューマンスケールへと傾いていくことになる。代々木体育館や都庁、新宿パークタワーなら建築を知らずとも大半の人は想像できるスケール感だろう。しかし今日の日本の動向はヒューマンスケール化に再度傾いている。経済不振の時期が到来し、行政の力は弱まり、労働面でも人口分布は生産層の減少が続く。3月の震災によって露呈したこともたくさんある。その中で建築というスケールの大きなものを扱う人間として、これからやらなければならないことは何だろうか。単に建物を建てることも、都市のシンボルをつくることも、官僚的な計画をすることも、これからは恐らくこの国には求められていないだろう。しかしこの国には必ずや建築家の知恵が求められている。むしろこれまでよりも需要は高いと僕は思っている。そのための建築家のあり方の模索を、これから僕は手探りで行っていこうとおもう。
早稲田大学 創造理工学部建築学科 佐藤鴻