第44回:人と違う道を行くという事について
「人と違う道を行くのはツラい」。高校生のころ一番後ろからクラスを見ていたとき、唐突に気がついたのを鮮明に思い出す。そういえばあれから何年かが経った。
大衆は常に間違える。多数派が主権を持ってしまうこの世界において、人は集まることでチカラを得ようとする。自分の周りを見渡してみると良い。多くの人は独りで立つことが出来るほど強くはないだろう。字のごとく皆互いに寄りかかっているのだ。そして集団の中にはある流れがある。KYなどのコトバはそれを良く表しているが、この流れに乗らないということは中々大変らしい。流れに乗ればプカプカと浮いて、気ままにどこかへは流れて行くからだ。人はこれが楽だと言う。確かにそうだった。大学では、うまく流れに乗ればどこまでも楽をして4年間を終えることが出来るということを思い出す。
早いとか、自動的とか、労力のいらないとか、心地よいとか、時間を使わないとか、そんな方向に人はすぐに傾いていく。「利便的、高効率、低コスト」という三大文句を掲げて最もらしい顔をしながら、というのがいっそう可笑しい。そういう方向に物事がドライブしていくのは人の欲がある限り止めようがない、とある人は言った。その中で消えゆく弱いものと、淘汰される強きものと、そのどちらでも無いものと。僕らにそれらを振り分ける器量があるのか、それは許されるのか…。
習慣を疑うことをするべきだ。僕らが当たり前に思っている目の前の日常は全て白昼夢の中にある。だからその中でも一番たちの悪い、無意識に巣食う習慣を断ち切ることが最優先される。小さな疑問を諦めることなく追い続け、ひとつひとつ解答を見つけようとして行くと、それはいつしか生きる哲学になる。自分が「ここ」に立ってくる。それは確かにツラい。覚めることの無い夢の中で、覚めろ覚めろ、と自らの頭をガンガン叩き続けることになる。精神的にツラいだろう。でもそこにこそ、生きることの楽しみがあると確信している。流されプカプカ、そのまま滝壺に没していく絵が僕の脳裏にはこびり付いて取れそうもない。これが僕の恐怖のイメージだ。人と違う道を行くのはツラい。でもそれが生きるということかもしれない。
早稲田大学 創造理工学部建築学科 佐藤鴻