第10回:生きる
ふと思う。なぜ人は、いや、なぜ僕は今のような人生を送るのか。誕生、幼稚園から大学入学まで、大した違いもなく(長い目で見れば)スムースに来た。
「学校では何を学べるのだろう」
この質問は10年以上の自問だが今だパッとするものは見つからない。いや、ない。いくらでもそれらしきものはある。しかしそれらは「要素(一)」であって「答え(全)」ではない。物事は積分的に成り立っているから、それは当然のことか。
先に「要素」といったが、学校やその周辺で得ることの出来るそれは他の舞台でも得ることが可能だ。時にはより質の高いものに出会うことさえある。しかしそのような出会いには限りがある。それは時間や物理的な問題だ。つまり1日最低でも8時間はいる学校に身体が縛られる。現代には幸いなことにインターネットという異時空間に身を預けることの出来る道具があるが、それを考慮しても学校による身体的束縛は僕の精神的束縛にも繋がっている。どうしたものか。
ある人は言う。「大学は必ず卒業したほうが良い」。
社会というものは合理と非合理、正義と悪、光と影、矛盾と愛、憎しみと喜び、金と人情、努力と才能といった不都合な真実で埋め尽くされている。そこで生きるには「大学卒業」というバッジが必要になるときもあるということだ。
これまでの人生18年間で僕は他人と自らを差別化することだけを考え、実行してきた。その多くの場合の手段として、90%の人々がやっていないことを早期的に取り組むということをしてきた。要は予習、または先取りということだ。大学でも同じ手で確かに目立つことは出来る。しかしこれからからはもう一捻り二捻りの工夫と試行錯誤が必要になってくるだろう。それは未開拓地に足を踏み入れる事、それから既存地同士の交通を整備する事の2種類が直ぐに思い当たる。これらを実行するにはやはりアカデミックにもクレイジーにも生きなければならなそうだ、ということに薄々気づく。
一つの答えとして、学校にいる理由は「バランス」だ。
日本では50%の人が大学に進学するが、それがいわゆるマジョリティだ。その流れを知らずして社会で波乗りなどできなそうだ。波の性質や天候はどんなに優秀なサーファーも無視はしない。むしろそれらをいかに適切に素早く読み取り、自分の力量と照らし合わせ、リスクの計算も瞬時に身体感覚によって出来る人こそが優秀なサーファーなのではないか。マジョリティとマイノリティのバランス。取って見せよう。
大学生活二週間、なんとももやもやした日々がつづく。
早稲田大学 創造理工学部建築学科 佐藤鴻