第36回:ベネチアビエンナーレ2

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(前回つづき)

生産と消費までを「生」とするならば、破棄と再利用を「死」としよう。本来表裏一体である生と死が、現代社会では断絶してとらえられた結果、例えば流通ひとつを取ってみてもそれが顕在化している事が分かる。その事について宗教心理学者の樋口和彦が説明している。

『古代人や中世人は死を自然の一部と見て、死の固有の意義をその世界観の中にうまく取り入れていた。それに反して現代人は死の取扱い方があまりにも片よっているために、死に対する極度の恐怖感をおこしている。古代人や中世人は彼等の世界観のなかに象徴的で可視的な「死の位置」を定めている。しかしわれわれ現代人にとっては、死者の世界がその世界観の中に位置づけられていないのである。死は現代人にとって、いつも「経験しないなにか」であり、生の延長上にしかなく、結局死は経験せずにすむものという直線的な死生観を信じている。』

樋口和彦が語るように、滅びること、いつか滅びるということ、滅びは必ずやってくること、について社会的な共感や通念がないために私たちにとって死は受け入れがたいものとなった。現代社会はそんな心情の延長に、実利最優先、個人主義、自分だけは死にたくない、などという発想の数々がつながっている。日本人が古くから持ってきた「もののあはれ」からは遠い世界を私たちは生きているのだろうか。死を受け入れずして、本当の意味で何を得る事ができるのだろうか。

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今回の課題製作ではもちろん建築的な事も多く学んだ。しかし僕自身なにが一番大きな成果だったかと言えば、それは「協力」というものを本当に意味で知ったことだ。僕たちの製作生活は世の中がまだ年明けで浮かれている三箇日過ぎから始まった。そこから泊まり込みで寝る時間や食べる時間を惜しんで続いた活動の中、お互いが妥協しそうなときや寝てしまいそうなときの声のかけ合い、そして試行錯誤の助け合いや高め合い。人間的に基本の部分から純度の高い製作活動にまで互いの意識のし合いが続き、その中での自分の振る舞いやポジションの取り方を体得していった気がする。これは今後の生活で大いに活用できる自らの「姿勢の取り方」を学んだと言える。

兎にも角にも、この三人で課題をやり終え、それに対して評価を頂き、迷惑をかけた周りの人たちに合わせる顔ができて、今は本当に安堵の気持ちで一杯だ。今年のスタートはしっかりと踏めた気がしている。

更新:2012-01-23
早稲田大学 創造理工学部建築学科 佐藤鴻